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名古屋地方裁判所 昭和57年(ワ)605号 判決

主文

一  原告が亡山内治一の死亡につき国家公務員災害補償法による遺族補償給付を受ける権利を有する地位にあることを確認する。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告の地位

原告は、訴外山内治一(以下「亡治一」という。)の妻である。

2  亡治一の死亡

亡治一は、昭和一八年九月郵便局職員として採用され、昭和五二年七月二六日から名古屋市昭和区桜山町六丁目一〇五番地昭和郵便局郵便課副課長として勤務してきた国家公務員であるが、同年一一月一六日、昭和郵便局において夜勤に従事中、夕食をとるため外出した際、午後七時ころ付近の路上で倒れ、救急車で安井病院に搬送されたが、翌一七日午前四時四〇分、右安井病院において脳出血により死亡した。

3  「公務上死亡」該当性

亡治一の死亡は次のとおり国家公務員災害補償法(以下「補償法」という。)一五条の「公務上死亡」した場合に該当する。

(一) 公務上外の認定基準

(1) 労災補償制度の趣旨、目的

現行労災補償制度は、憲法二五条(生存権、国の生存権保障義務)及び憲法二七条(勤労の権利・義務、勤務条件の基準)を具体化するために設けられたものであり、その基本となるのが労働基準法七五条ないし八八条及び労働者災害補償保険法である。この二法を一般法として人的対象別に特別法が制定されているのであり、国家公務員については労働基準法が適用除外(国家公務員法附則一六条)されていることから国家公務員災害補償法が制定されている。同法は基本的には労働基準法及び労働者災害補償保険法を踏襲しており、公務員災害補償制度は民間における労働者災害補償制度と同様公務上で負傷もしくは死亡した労働者あるいはその遺族が人たるに値する生活を営むために必要を満たすべき労働条件の最低基準を定立して保護を与える制度である。「義務上」ないし「公務上」の解釈に当たりこれに差異を設けるべき理由はない。

被告は、公務災害の原資が「国民の税金」であることを理由に労災補償制度の趣旨から離れて「公務上」の解釈を狭くしようとしているが、全く根拠がない。国家公務員は労働者でありながら労働基本権が極端に制限されている現行制度のもとでは、逆に民間労働者以上に手厚く保護されるべきである。

(2) 「公務上死亡」の解釈

右の災害補償制度の趣旨、目的からして、補償法一五条にいう「公務上死亡」した場合とは、公務と職員の死亡との間に合理的関連があることをいい、当該業務に従事したために基礎疾患を悪化させ死亡に至ったことが推定されれば足りると解すべきである。

公務と負傷ないし死亡との間に相当因果関係が必要であるという見解(相当因果関係説)は、立場の交換可能性を前提として一方の被った損害を他方に填補させ、もって当事者間の公平をはかろうとする損害賠償制度に妥当するものであって、これを損害賠償制度とは趣旨、目的を異にする災害補償制度に当てはめるのは適切ではなく(災害補償制度にあっては、立場の交換可能性はなく、加害者を保護する必要性はない。)、災害補償制度に相当因果関係説を持ち込み、厳格に解釈することは、災害補償制度の趣旨、目的を見誤った理論である。また、条文の体裁上も、損害賠償制度においては「に因りて」(民法四一六条、七〇九条)と規定されているのに対し災害補償制度においてはかかる規定がされていないことからも相当因果関係説はとりえない。

(3) 脳血管疾患等の公務上外認定基準

相当因果関係説に立った場合でも、災害補償制度の趣旨に則ってその有無を判定すべきであり、職員の死亡と公務との間に相当因果関係を要すると解するとしても、死亡が公務遂行を唯一の原因とする必要はなく、既存の疾病が原因となって死亡した場合でも公務の遂行が基礎疾病を誘発または憎悪させて死亡時期を早めるなどそれが基礎疾病と共働原因となって死亡の結果を招いたと認められる場合には、労働者がかかる結果を予知しながら敢えて業務に従事するなど災害補償制度の趣旨に反する特段の事情がないかぎり、右死亡は公務上の死亡であると解するのが相当である。

(4) 安全配慮義務違反との関係

一般に使用者は労働者に対し信義則に基づき当該法律関係の付随義務として労働者の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき安全配慮義務を負っている。

また、使用者は労働安全衛生法により、健康診断実施義務(同法六六条一項、一二〇条一号、事業者は雇入れ時の健康診断、定期健康診断等を義務づけられており、違反者には刑事罰の制裁がある。)及び健康診断実施後の義務(同法六六条六項、一二〇条一号、規則五一条、事業者は法定のすべての健康診断の結果を記録する義務があり、違反に対しては刑事罰の制裁がある。同法六六条七項、事業者に健康診断の結果労働者の健康を保持するため必要があると認めるときは、その労働者の実情を考慮して、就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮その他の適切な措置を講じなければならない。)を負っている。

右の規定によっても使用者が労働者の健康状態の異常の有無の確認義務と異常発見時の適正措置義務の二つの注意義務を負っていることは明らかである。

そして、右のような安全配慮義務の違反により労働者の基礎疾病を急速に憎悪させ、あるいは適切な治療を受けさせる機会を失わさせて、過重な業務に従事させていたことにより基礎疾病が急激に悪化し、これに起因して死亡するに至った場合には、公務の遂行と職員の死亡との間には相当因果関係があるものというべきである。

(5) 被告主張に対する反論

ア 被告は、素因、基礎疾患がある場合の相当因果関係を認める基準として、〈1〉公務遂行上のリスクファクター(危険因子)が相対的に有力な共働原因となって発症する場合、〈2〉その自然的経過を越えて、早期に発症または著しく憎悪したと認められる場合をあげているが、〈1〉の「相対的に有力な」共働原因とされる点及び〈2〉の「著しく」憎悪したと認められる場合とされる点は、公務上の認定の範囲を現実に著しく狭める結果を招くこととなる。すなわち、被告の主張によれば、脳内出血等の脳血管疾患においては、疫学的に有意発症すると認めるに足りるデータがなく、発症に顕著な個人差があり、生活環境におけるリスクファクターの占める割合が大きく、職務によるリスクファクターとの分別ができないというのであり、そうとすれば、前記要件を立証することは事実上不可能ということにならざるを得ない。

イ 被告は、行政実務上公務上外の認定基準(人事院事務総局職員局長通知昭和六二年一〇月二二日職補第五八七号)を設けて判断の適正を期している旨主張するが、右認定基準は、従前の主たる要件であった「事故等(アクシデント)」を「過重負荷」に改めたものであるが、従前の災害主義を極めて色濃く残したもので、公務災害の認定基準としては極めて不十分なものである。「過重負荷」とは、「異常な出来事」に遭遇したことによりまたは「日常の職務に比較して特に質的もしくは量的に過重な職務」に従事したことにより、医学上当該脳血管疾患などの発症の原因とするに足る精神的または肉体的負荷をいうものとされるが、右のうち「異常な出来事」はいわゆる災害主義として厳しく批判されてきたものである。「日常の職務に比較して特に質的もしくは量的に過重な職務」については、従来の基準による指針では「従来の職務内容に比し」とあったものを「日常の業務に比し」と改めたもので、日頃から過重な業務を行っているものについては、日常業務自身が過重なものか否かが問われるべきであって、日常業務を所与の前提としたうえ、勤務時間あるいは業務量の面で特に過重負担を余儀なくされたか否かを問題とするのは、右認定基準にも反するものである。

また、被告は、過重負荷の有無を判断する対象期間として、〈1〉発症前日から直前の勤務状況が最も密接な関連を有し、〈2〉発症前一週間の勤務状況も憎悪に関連があるとし、〈3〉右発症前一週間以内の勤務の過重性の付加要因として発症前一か月の勤務状況を調査する旨主張するが、過重負荷の有無の判断に当たり、右のように期間を限定することは科学的根拠がないし、そもそも、長期間にわたり過重な労働に従事している場合画一的基準を設けること自体根拠がない。被災者個々人についての過重負荷の有無は個別的に判断されるべきであり、その意味では一般的な過重負荷の有無ではなく、個々人によっての過重負荷の有無を判断するべきである。被災者が基礎疾患を有する場合、基礎疾患を有しない他の同僚も従事している通常の業務に従事しても、当該被災者にとっては過重な負担となることは十二分に想定されることであるから、公務による負担、過重負荷の有無の判断に当たっても、当該業務が被災者の基礎疾患にどのような悪影響があったのか、当該基礎疾患を有する被災者本人にとって過重なものであったのか否かが問題とされるべきである。

(二) 亡治一の労働負担

(1) 亡治一の地位

亡治一は、昭和五二年七月二六日付をもって従前の東海郵政局人事部厚生課課長補佐(寮務主査)から職種を異にする昭和郵便局郵便課副課長を命ぜられたものであるが、当時、昭和郵便局は庶務会計課、郵便課、第一集配課、第二集配課、貯金課、保険課の六課で構成されており、亡治一が所属していた郵便課は郵便物を宛先に従って区分し送り出すという差立区分及び配達区分等を担当しており、職員はすべて内務職員であり、昭和郵便局内の全内務職員の定員の半数を占めていた。

郵便課は、課長一名、副課長一名、課長代理一名、主事、主任、係員で構成され、副課長は課長を助け、課長代理以下の職員を指揮し、課の業務の運行管理に当たるものとされ、課長が日勤勤務(午前八時三〇分から午後五時一五分まで)であるのに対し、副課長の正規勤務時間は午後一時から午後九時五分までの夜勤勤務であった。

(2) 昭和郵便局における業務量の飛躍的増加

ア 昭和郵便局は、昭和五二年四月四日新庁舎における業務開始にあわせ、郵便物自動選別取揃押印機、郵便番号自動読取区分機を導入稼動させ、同年五月三〇日から集中処理局として通常郵便物差立集中処理業務を始めるに至った。集中処理局とは他の郵便局で集められた郵便物を集中し合わせて差立区分等をする郵便局をいうのであり、昭和郵便局においては集中処理局化に伴い瑞穂郵便局、千種郵便局扱いの郵便物が集中された。

右の集中処理局化に伴って昭和郵便局の郵便業務は増大し、とりわけ郵便課の業務に多大な影響を与えた。通常郵便物の引受数についてみると集中処理局となる前の昭和五一年度の一日平均は七万六〇五九通であり、昭和五二年度の一日平均は一二万三〇九一通となり、この間約六〇パーセント増大した。集中処理局となる昭和五二年五月以前の右引受数と以後たる六月以降の引受数を比較すると実に後者は前者の約二〇〇パーセント以上と飛躍的増加となる(昭和五二年六月から同年一一月までの引受数は、前年同月比で二三五パーセントから二七八パーセントであり、また、昭和五二年四月、五月の一か月当たりの取扱件数は一四五万八九一六通であり、同年六月から一一月までの一か月当たりの取扱件数は三一一万五〇二七通であり、後者は前者の二一四パーセントになっている。)。これにより、郵便課の差立業務が増大し、なかでも手区分作業の量は昭和五二年六月から一一月までの六か月間は同年前月比で一六四パーセントから二一一パーセントであり、平均一七八パーセントとなっている。

イ 集中処理局化に伴い郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機等新機械が導入されて稼動を始めたのであるが、右機械ではもともと定型外郵便物は処理できないうえ、職員に対する右機械の操作、修理等の訓練も極めて不十分なものであり、機械のベルトがよくはずれたりして一日に何回となく運転を停止したり、またそのため手作業で処理を進めることも多いという状況であった。そのため、機械導入とともに一層繁忙の度を加えることとなった。郵便物自動選別取揃押印機は当初予定されたとおりの機能を発揮せず処理予定能力一時間当たり三万通に対して現実には一万二五〇〇通程度であり、予定の四〇パーセント程度の能力しか発揮していないし、郵便物自動選別取揃押印機が順調に稼動したとする昭和五二年八月以降をとっても郵便物自動選別取揃押印機運行日誌に記載があるだけでも一一月までに五回、郵便番号自動読取区分機についても郵便番号自動読取区分機運行日誌に同年八月から一一月まで七回の故障の記載がある。右運行日誌に記載があるのは大きな故障であり、ベルトが外れたりして機械が停止する程度の故障は一日に十数回あった。

ウ また、引受数の増加は、未処理郵便物を発生させる結果となった。集中処理局となる以前はこうした残物数はないに等しかったが、集中処理局となった後は、一日平均一万通ないし一万二〇〇〇通が残るようになった。この数は、集中処理局となる前の一日平均引受数の二割弱にも及ぶ数である。未処理数の発生は郵便局によって極めて重大な問題とされており、毎日昭和郵便局長、郵便課課長に報告されており、郵便課課長は副課長及び課長代理の報告を受け点検をしていた。

エ 昭和郵便局の集中処理局に伴い要員を増員されたが、局員一名当たりの処理物数は増加しており、また、そうでないとしても、現に昭和郵便局においては集中処理局が開始された後、日曜日を除いてファイバー三杯から多いときは五杯の不結束の郵便物が滞留し、差立もその日のうちにできないという事態に立ち至っているのであるから、要員自体が不足していたことは明らかである。さらに、要員の増員により中間管理職としての亡治一の精神的負担を増加させた。

オ 以上の状況は事実上郵便業務の現場に責任をもたされていた亡治一に多大な負担を課す原因となった。

(3) 亡治一の日常的業務内容

亡治一は、副課長として課の管理業務にあたるとともに、現場における郵便業務の遂行の先頭に立っていた。

ア 現場における郵便業務の遂行

(ア) 差立区分作業

昭和五二年四月に昭和郵便局が郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機を導入した後の郵便課における差立区分(昭和郵便局に集められてきた郵便物の行先別の区分)作業内容は次のとおりである。

〈1〉 窓口引受普通郵便物(料金別納後納郵便物)については郵便番号自動読取区分機へ回るものとそうでないものがあり、後者は差立区分を手作業、立作業で行う。これらの作業は個性ある読みにくい文字を一瞬のうちに判読しながら、四〇余りの区分棚に仕分ける作業であって非常に神経を使う作業でもある。

〈2〉 取集郵便物を取揃台の上に出し、定型外の大きさのものや厚いもの、無料郵便物、料金別納郵便物等を選別する作業を手作業、立作業で行う。これはかなり上体を前に倒すようにして身をのりだして行う作業で、腰、背に力を要する作業でもある。右選別作業で排除された郵便物及び郵便物自動選別取揃押印機で排除された郵便物は〈1〉の作業にまわされる。

〈3〉 郵便物自動選別取揃押印機で区分されない読取不能、無番号の郵便物の差立区分を手作業、立作業で行う。

〈4〉 区分された郵便物の把束を立作業で行う。これは瞬時に紐によって巻かれるため指など触れないよう注意を要する。

〈5〉 機械で一応区分された郵便物の第二次区分を手作業で行う。

〈6〉 区分され把束された郵便物を大郵袋へ入れる。

〈7〉 大郵袋の口を縛り、鉄車に乗せる。通常大郵袋は一〇キログラム位はあり、これを持ち上げて移動させる中腰作業はその郵袋の数が多いためかなりの重労働である。

(イ) 配達区分作業

差立区分は郵便番号として記載された数字あるいは比較的著名な地域名に従って区分するものであるが、配達区分は郵便番号によっては区分できないため、実際に記載されている町名等を読み取ることにより約五〇ほどに区分するものである。

亡治一は、昭和郵便局で勤務するようになって間もなかったため、町名等を熟知していなかったこともあって、配達用として昭和郵便局に送られてきた郵袋の開披及び郵便物の取揃に従事することが多かった。右郵袋の開披及び郵便物の取揃作業は、重い郵袋を持ち上げ、郵袋の中の郵便物を高さ約七五センチメートルの取揃台の上にひろげて整理し、逐次配達区分棚に運ぶというものであり、冬季でも汗をかく程の重労働であった。

(ウ) 右のとおり郵便課業務の大半は立作業であるところ、立つという姿勢は、全体重を支える背や足の関節を直立の状態にし続ける筋肉の緊張をともない、また、下方に血液が降りやすいため血行障害をおこしやすいことから、疲労度は極めて高い。さらに、郵袋の開披及び取揃作業は前記のとおり郵袋は重量物であり、かつ、中腰作業をともなうので、背骨及び背筋並びに腰に大きな負担をかけるものである。

イ 管理業務の遂行

(ア) 机上事務

亡治一は机上事務が不得手ということはなく、文章作成能力、起案能力、管理能力について評価されていたものであるが、日常的に差立業務等現場の業務に忙殺され、机上事務を充分に勤務時間内にできないような状態に追い込まれていた。そこで、局内における僅かな時間や帰宅後の限られた本来健康回復のための貴重な時間を使って机上事務をしていたものである。

(イ) 残業命令

亡治一は副課長として業務の流れを把握して残業の指示を出していた。昭和郵便局は、集中処理局化以後取扱郵便物が飛躍的に増大したため残業の必要性が増えた。残業命令を伝えるのは主事か課長代理であるが、拒否された場合は亡治一が改めて伝え、拒否理由を記録していた。残業拒否は集中処理局化以降増加し、しかも、いわゆる三六協定が月単位で締結されていたことから、右協定締結の遅れにより残業命令が発令できないこともあり、亡治一のストレスは増大した。

(ウ) 職場規律の保持及び労働組合との対応

昭和郵便局において、当時、ネームプレートを着用しない職員がおり、亡治一はこのために職場規律保持のために気を使っていた。また、労働組合との間にも配転問題等があり、労使関係は決してよくはなかった。このため、亡治一は種々気を使うことになり、職制として労働組合の活動について記録もしていた。

(4) 亡治一の死亡当時の臨時的業務内容

亡治一は、死亡当時日常的業務の繁忙に加え、次のとおり臨時的業務に集中的に従事し、さらに肉体的、精神的負担が増大した。

ア 郵便協力会の設立事務

昭和郵便局においては、昭和五二年一〇月末ころから郵便協力会設立が準備されたものであるが、亡治一は郵便課副課長として右設立事務を担当した。右設立事務は、郵便課が中心となって進めてきたものであるが、加入の勧誘、設立総会の通知、発送等の事務は非組合員である管理職があたり、一般職員はこれに関与しなかった。したがって、その実務の大半は亡治一の担当するところとなり、封筒の宛名書き、会計事務の一部を自宅に持ち帰って処理せざるを得ず、また、亡治一自身も局外に赴いて加入の勧誘を行った。亡治一は、同年一一月一日以降同月一六日に倒れるまでの間、記録に残っているだけでも七日間にわたって時間外に郵便協力会関係業務に当たっている。なお、郵便協力会の設立総会は亡治一の倒れた昭和五二年一一月一六日に行われた。

イ 年賀葉書の大口販売

亡治一は、郵便課の業務として年賀葉書の大口売りさばきを担当した。当時、年賀葉書の受注量が少なかったため、昭和五二年一〇月上旬ころから事前把握という名目で大口の注文取りをしていたことから、注文のあった年賀葉書(少なくとも四〇〇〇枚)については郵便局が注文者に届けていた。右配送業務は非組合員である管理職が主に担当することになっており、実際には亡治一が中心となって行い、一般職員はほとんど関与しなかった。右配送業務は、年賀葉書売出日である昭和五二年一一月六日から一〇日程度で届けなければならず、集中してされなければならなかった。亡治一は、勤務時間外に、同月一日 二日は年賀葉書の事前把握に従事し、同月七日から九日まで配送業務に従事したことが記録に残っている。加えて、年賀葉書は段ボール箱大で一個一三ないし一四キログラムの重量があり、とりわけ二階以上のエレベーターの使用できない事務所に配送する場合は重労働となった。

(5) 亡治一の労働時間、夜間勤務、休日勤務、休憩等

ア 長時間労働

人間の労働の生理学的限界は昼間の八時間ないし一〇時間であり、通勤時間を含めて一〇時間を超える労働は好ましくないとされる。長時間労働は著しい疲労をもたらし、労働時間が長くなれば疾病休業も増加することとなる。

ところが、亡治一は、毎日午前一〇時から午後一〇時まで一二時間労働に従事し、一週間の労働時間は四八時間をはるかに超えていた。右労働時間は慣行的に行われていたものであるが、過重な勤務であることは明らかである。

イ 夜勤勤務

亡治一の所定勤務時間は、日曜、祝日は午前九時から午後五時五分まで、その他の勤務日は午後一時から午後九時五分までであるところ、現実には前記のとおり一二時間労働に従事していた。

労働生理学的には午後五時以降一〇時までの労働は、生体リズムに逆行する労働として身体的負担をより一層大きなものとして疲労蓄積させる結果となる。

ウ 休日

休日に疲労回復効果があることは労働生理学的にも確認されており、また、週休日は毎日の労働継続に対して生理的、心理的な定型の節度をつけるという重要な意義があるとされる。

ところが、亡治一は、昭和郵便局へ配転後年休は一日も取得せず、死亡直前の週休日とされる昭和五二年一一月一二日にも出勤している。右週休日に、亡治一は身体の不調を覚え、わざわざ昭和郵便局へ出向き、上司の増子郵便課長に休暇取得の申出をしたものであるが、右増子課長は右申出に快く応じなかったばかりか心ない言葉を吐いたため、亡治一が憤慨して当日出勤したものである。

エ 休憩、休息

夜勤勤務の所定休憩時間は四五分、所定休息時間は二八分と定められている。

ところが、亡治一は、概ね、毎日、午前一〇時出勤、午後一時一五分から午後一時五〇分の間食事と休憩、午後三時二〇分まで立作業、午後三時二〇分から五〇分まで夜勤者の休息時間であるが副課長としての机上事務、午後三時五〇分から午後六時まで立作業、午後六時から六時四五分まで立作業ないし副課長としての仕事、午後六時五〇分から午後七時一五分まで食事、午後七時一五分から午後九時五分まで立作業、午後九時五分から午後一〇時まで副課長としての仕事にそれぞれ従事していた。右のとおり、亡治一は、午前一〇時から午後一〇時までの間、食事時間を除いてはほとんど無休憩、無休息であったといっても過言ではない。したがって、実質労働時間は一一時間に及び通勤時間一時間を加えると一三時間の拘束時間となっていた。しかも、昭和五二年一〇月末ころからは郵便協力会設立準備の仕事の期間が迫り、仕事の一部を自宅に持ち帰るいわゆる「ふろしき残業」までしていた。

(6) 亡治一死亡前の業務の繁忙

ア 業務の繁忙の程度の目安となる昭和郵便局における不結束物数(当時昭和郵便局に取集された入物数及び前日の残物数から昭和郵便局から郵便物を搬送する最終便が出発する午後九時八分までに業務の繁忙等により未処理のまま差立区分ができずに残った物数)についてみると、その発生が恒常的になっていただけではなく、昭和五二年一一月の不結束物数の合計が二八万一五〇〇となり、同年九月の不結束物数の合計一三万八七〇〇の二倍以上の増加傾向を示し、特に同年一一月一四日以降は不結束物数が、一一月一四日が一万二〇〇〇、同月一五日が八〇〇〇、同月一六日が三万二〇〇〇と急増していた。

イ 昭和五二年一一月一六日の状況

亡治一が倒れた昭和五二年一一月一六日の入物数の総数は五万八七〇〇であり前日残(前日の不結束物数)八〇〇〇を合計すれば当日差立区分すべき物数は六万六七〇〇と多かった。

ところが、当日は、郵便番号自動読取区分機にトラブルが発生し、右区分機への供給数が通常に比較して極端に少なく、その処理所要時間が極端に短くなっている。また、当日夜勤勤務者は一三名出勤すべきところ三名欠勤しており、最も繁忙な時間帯に二三パーセントもの要員が不足していた。こういったことから、当日の業務運行は著しく渋滞し、午後五時四八分出発の搬送便(名天上四号)の出発時刻において、右時刻までに差立区分されるべき取集三号便、特集便で取り集められた一万三一〇〇の郵便物について全く手つかずの状態にあったものであり、結局当日の不結束物数は三万二〇〇〇に上っている。亡治一は夕食に出かける午後六時五〇分ころまで渋滞した運行業務の回復をめざして必死で差立区分作業に従事していたものである。

(7) まとめ

ア 亡治一は死亡当時満五〇歳の高齢で、合理化の最先端を行く集中処理局へ配転され、しかも高血圧症を患っていたことから、同人の勤務から生ずる負担は他の作業者に比較して一段と重いものとなっていた。

イ 中高年者は、外部の刺激に対する生理的反応が遅れ、刺激に対する反応に個人差が大きく、外部からの負荷に対して生じた生体反応の正常への復帰が遅れるなど生理機能の低下が見られることから、敏捷な動作や巧緻性を必要とする作業には注意を要し、常に自分のペースで作業する必要があり、かつ、休養時間を長くとる必要がある。中高年者の生理機能を無視して労働させると労働負担に堪えきれずに病的状態となる可能性が高い。

ウ 亡治一は、満五〇歳という高齢で、寮務主査という比較的拘束のゆるやかな軽労働から昭和郵便局郵便課副課長という拘束性の強い第一線業務に、異職種間の配転をされているのであり、年令による環境に対する適応能力の低下のために、身体的、精神的負担は極めて大きいものがあった。

エ 亡治一は、副課長として管理業務とともに現場における郵便業務の先頭に立ち、双方の責任を負わされていたのであり、昭和郵便局の前記状況のもとで、同人の身体的負担、疲労蓄積が頂点に達していた。ところが、上司の増子郵便課長は、亡治一の立場を理解せずに、同人に対し管理業務に比重を移すように求めており、亡治一は現場作業と課長から求められる管理責任の板挟みで心理的負担が一層増大した。

オ 亡治一は、過密長時間労働を継続し、疲労を蓄積させ、また、立作業、中腰作業という不慣れな作業は身体的負担となっていた。

カ 以上のとおり、亡治一は死亡直前過重な労働負担により肉体的、精神的にその疲労が極限状態にあったものである。

(三) 基礎疾患との関係

(1) 亡治一の基礎疾患

亡治一の直接の死因は脳出血であり、脳出血の最大の危険因子は高血圧であるところ、亡治一は昭和四三年五月二九日の定期健康診断により本態性高血圧症と診断され、右疾患を基礎疾患として有していたものであり、亡治一の直接の死因である脳出血は右基礎疾患の憎悪によるものである。

(2) 本態性高血圧症の病態

ア 発症原因

本態性高血圧症は原因不明の高血圧症の総称であるが、環境因子が重要な因子となっており、環境因子の中には労働負担も含まれるから、亡治一の本態性高血圧症も昭和一八年郵便局職員として採用されて以来の長期にわたる労働負担が加齢とともに表面化したものである。

イ 憎悪因子

本態性高血圧症を憎悪させる重要な因子としてストレスがあることは医学上争いがない。また、長時間労働、夜間労働、休日出勤など職場における労働負担も高血圧症を悪化さる要因となり、肉体的ストレスばかりでなく中間管理職としての精神的ストレスも高血圧症の発症、憎悪の重要な因子と考えられている。

したがって、脳出血の最大の危険因子としての高血圧と高血圧を憎悪させる重要な因子であるストレスを重視しなければならない。

ウ 一般療法

本態性高血圧症の一般療法として最も強調されるのが安静であり、精神的ストレスから解放することが大切であり、過重な負担を強いられる仕事や職場はできるだけ避け、適当なレクリェーションや散歩等により精神的緊張をほぐすことを心掛けるべきであるとされる。

(3) 亡治一の本態性高血圧症の憎悪の原因

ア 亡治一の症状の推移

(ア) 昭和郵便局配転以前

亡治一が昭和郵便局に配転された昭和五二年七月二六日以前の症状は、昭和四三年五月二九日の定期健康診断において管理医による医学的判定区分(郵政省健康管理規程五一条)の要指導者とされ、昭和四五年五月一二日の定期健康診断においては要治療者とされ、昭和四六年四月一九日の診断では一旦要指導者とされたものの、昭和四七年五月一日の健康診断では一転して要休養者に判定区分が変更され、同年六月二三日から昭和五二年四月一一日まで約五年間要治療者で推移した。ところが、昭和五二年四月一一日の健康診断において、血圧が最大血圧一五〇、最小血圧九〇と比較的低いレベルにあったことをとらえ、精密な診断をすることなく判定区分を要治療者から要指導者へ変更した。その間、亡治一の血圧値は血圧異常者区分基準(郵政省健康管理規程四四条)高血AまたはBに分類され、一進一退を繰り返していた。

(イ) 昭和郵便局配転後

ところが、昭和郵便局配転後亡治一の本態性高血圧症は急速に悪化し、昭和五二年一〇月一一日の名古屋逓信病院における診察では血圧が最大血圧一九六、最小血圧一一〇、肩こり、めまいを訴え、同月一七日の同病院における診察では血圧が最大血圧一五六、最小血圧一〇二、心臓肥大、心電図に虚血性変化が認められた。また、亡治一は同年一一月七日にハイリスク健康診断(脳卒中、心臓病などの循環器系疾患の早期発見、早期治療を目的としてハイリスクにさらされている管理職を対象に実施される特別の健康診断)を受け、血圧が最大血圧一九一、最小血圧一二一という異常な値を示し、血圧異常者区分基準はAからBに、判定区分が要指導者から要治療者に変更されたものの、右検査結果に基づき亡治一の労働条件についてその負担を軽減する措置をとらなかったばかりか、右検査結果を亡治一に通知すべきことになっていたのにもかかわらず、これを通知することもなかった。なお、右ハイリスク検査における症状は血圧の数値のみをとらえれば血圧異常者区分基準はCに該当するものであるが、自覚症、心電図等を総合的に考慮すればBに該当するものであり、昭和五二年一〇月以降の亡治一の本態性高血圧症の重症度は中程度ということができ、急速に憎悪はしたものの、短期間に自然憎悪により死の転換を迎えるほど重症のものではなかった。

イ 亡治一の労働負担との関係

亡治一の本態性高血圧症が昭和郵便局配転後急速に憎悪した原因は、前記昭和郵便局における過重な労働負担による肉体的、精神的ストレスによるものである。

ウ 被告の安全配慮義務違反ないし健康管理の懈怠との関係

(ア) 昭和五二年四月一一日の定期健康診断結果による判定区分の変更

被告の管理医は、昭和五二年四月一一日の定期健康診断における血圧値のみによって亡治一の判定区分を要治療者から要指導者に変更したが、亡治一は昭和五一年三月三一日の眼底検査の結果KW[2]aないしbであり、動脈硬化の進展がうかがわれたのであるから、血圧値が好転したからといって管理区分を安易に緩めることは許されないはずであり、眼底所見等の精密検査を行うことなしに判定区分を変更することは管理医の懈怠である。

右判定区分の変更を基礎に被告は亡治一を昭和五二年七月二六日従前の辻町寮長から昭和郵便局郵便課副課長へ配転したものであり、寮長から合理化の最先端というべき職場への配転は亡治一にとって肉体的、精神的負担を著しく増加させるものであった。右判定区分の変更がなければ右配転はなかったものであり、被告の措置は、亡治一の健康状態を正しく把握しなかったばかりでなく、右判定区分を前提に亡治一を過重な業務に配転したものであり、二重の誤りを犯したというべきである。

(イ) ハイリスク検査後の措置

ハイリスク検査結果の処置については、東海郵政局人事部長、同経理部長の各普通局長宛の通達により、「検診の結果は、管理医が医学判定の上、健康診断票(指導票及び血圧手帳を含む。)に必要事項を記載して当該局へ送付するので、当該結果を速やかに本人に通知するとともに、郵政省健康管理規程(昭和四〇年一〇月公達六九号)第五一条に定める必要な事後措置を行うこと。」とされていたのに、昭和郵便局長は亡治一に対し右ハイリスク検査結果を通知することもなく、郵政省健康管理規程五一条一項七号、二号に基づき要治療者に対し、「勤務場所又は勤務若しくは担務の指定の変更を行い、検査医の診断書に基づき休暇を与えて一日の勤務時間を短縮し、又は深夜の勤務を禁ずるとともに、なるべく時間外勤務及び週休日の勤務を命じないようにする等勤務を軽減するほか、必要な治療をじゅうぶん行わせ、再発又は悪化の防止に努める」べきであったのに、必要な勤務軽減措置をとることもなかった。

亡治一は、昭和五二年一一月七日以降も勤務時間の短縮どころか一日三時間の早出出勤を行い、定時の午後九時五分以降も一時間近く残業を行うなど連日時間外勤務を続け、同月一二日には休日出勤も行っているほか、通常業務に加えて郵便協力会の設立業務、年賀葉書の事前把握、販売業務など勤務内容も加重されていた。

以上の被告の健康管理業務の懈怠は、亡治一に適切な治療を受けさせる機会を失わせて加重な業務に従事させたものであり、亡治一の基礎疾患を急速に増悪させた原因となるものである。

エ 服薬成績(コンプライアンス)との関係

亡治一のカルテ上の記載によれば、昭和五二年一〇月一一日七日分、同月一七日七日分の記載があった後死亡までの間降圧剤の投薬を受けたとの記載はないが、高血圧管理票の同年一一月七日の欄には「治療中」との記載があり薬の飲み残しがあった。仮に一、二週間服薬を中断したからといってそれが原因で血圧値が上昇に転ずるとは限らないから、それ故に高血圧が急激に増悪したと決めつけることはできない。

また、亡治一が服薬を中断していたとしても、医師に受診するため休みたくても休めない職場の実態が問題となるべきである。

さらに、亡治一が服薬を中断していたとしても、治療上の怠慢(過失)を理由に公務外とする理由とはなり得ない。

(四) 国家公務員災害報告書の記載

亡治一の死亡については人事院規則一六-〇(職員の災害補償)第二〇条に基づき国家公務員災害報告書が昭和郵便局長によって作成されており、右報告書には次のとおりの記載がある。

(1) 「事案の概要」欄

「食堂において夕食をすませた直後、脳溢血により倒れて昏睡状態に落ち入り(陥り)、死に至ったもの」

(2) 「災害発生当日の状況」欄

「昭和五二年一一月一六日被災者は午前一〇時頃出勤し(超過勤務二時間命令)(勤務時間コ一:〇〇~コ九:〇五)出勤簿に押印した後、勤務に付いた。

当日、午前一〇時〇〇分から午前一〇時〇五分頃まで中勤者のミーティングに加わり、必要な作業指示を与えた後、午前中は自動選別取揃押印機、区分作業、大物郵便物の大郵袋区分作業等業務の流れの中から遅延している作業の応援にあたったほか、休暇関係の処理等、業務の運行管理にあたる中、午後一時二〇分頃、年賀ハガキ販売のため、第二集配課副課長の運転する官用軽四輪車に同乗して昭和税務署へ(昭和局から約一・一km)年賀ハガキ二〇円を一九一二〇枚、二一円を三一三〇枚の依頼分を売捌きに出かけて、午後二時〇〇分頃、同軽四輪に同乗して帰局した。

当日は物増として朝から午後にかけてハガキ八六〇〇枚、三種一三〇〇枚、市内特別四〇〇〇枚、合計一三九〇〇枚があったが職員に作業指示して午後四時〇〇分頃までには区分作業を終了した。

また当日は午前一一時〇〇分から午後〇時三〇分ころまで開催された昭和郵便協力会設立総会(賛助会員約四〇名)運営のため午前一〇時〇〇分頃から午後二時三〇分頃まで郵便課長が事務室を不在にする間を含めて精力的に業務運営を采配した。

午後六時五〇分ころ、自分一人で食堂キッチン和(昭和区陶生町一-八・昭和局から約一五〇mの所)へ夕食に行くさい、同食堂のすぐ西隣の桜薬局に立ち寄り、頭がフラフラすると云ってバッファリン一個を買い、薬局では飲まずに、そのまま同薬局を出て、食堂キッチン和へ入った。

キッチン和において、イカ焼定食を注文して半分くらい食べ残して、午後七時一〇分頃、よろよろとしながらキッチン和を出た。

キッチン和を出た時点で倒れたものと思われるが、すぐ西隣の桜薬局(昭和区陶生町一-八)の表通りに面した北側入口から四つんばいになって這って入ってきて「わしは血圧が高い」と云ってうつぶしたので、店に居た桜薬局の奥さんは「動いてはいけません。ジットしていなさい」と告げて、すぐに一一九へ通報した。

同時に被災者が「わしは郵便局だ……」と口走ったことから昭和郵便局郵便受付窓口へ通報したことにより事故が判明した。

午後七時三〇分頃、安井病院(昭和区滝子町二七)へ救急車で入院し、人事不省のまま翌一一月一七日午前四時四〇分死亡した。

なお、前駆症状として、一一月一六日午後四時四五分頃昭和局第一集配課副課長席にきて、同僚に「目まいがする」と云っていたことが事後、判明した。

(3) 「災害発生の原因」欄

「当日、体調に変調を自覚したと思われる時点(目まい等)での医者への受診等を受けるなりの決断に遺漏を生じたまま勤務したことに起因する。」

(4) 「所属長が公務災害又は通勤による災害と認める理由又は被災職員等が主張する理由」欄

「本件は被災者がたまたま夕食の休憩時での事故であるとは云え、一連の勤務時間の中で発生した事故であり、公務起因性を有すると思慮されることから、公務上の災害と認められる。」

4  結論

以上によれば、亡治一は補償法一五条の「公務上死亡」した場合に該当し、原告は亡治一の妻として同条による遺族補償給付を受ける権利を有する地位にあるものであるところ、被告はこれを争うので、原告は被告に対し、原告が右地位にあることの確認を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3について

(一) 冒頭部分及び(一)を争う。

(二) (二)について

(1)のうち副課長の正規勤務時間を除いてその余を認める。副課長の勤務時間は、日曜日、祝日は日勤(午前九時から午後五時五分まで)であり、火曜日は週休日、その余の曜日は夜勤(午後一時から午後九時五分まで)である。

(2)につき、アのうち、集中処理局化に伴って郵便課の業務に多大な影響を与えた点、二〇〇パーセント以上の飛躍的増加となった点を否認し、その余を認める。イのうち、郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機が定型外郵便物(ただし、「定型外郵便物」が正しい。)の処理ができないことを認め、その余を争う。ウのうち、未処理数の発生が毎日郵便局長、郵便課長に報告されており、郵便課長は副課長、課長代理の報告を受けて点検していたとの点を認め、その余を争う。エ、オは争う。

(3)は争う。

(4)のうち、亡治一がア、イの業務を担当していたこと自体は認めるが、その余を争う。

(5)ないし(7)は争う。

(三) (三)のうち、(1)を認め、その余は争う。

(四) (四)は認める。

3  同4は争う。

三  被告の主張

1  初めに

亡治一の職務は日常の職務に比較して特に過重な職務とは認められず、右職務が亡治一の本態性高血圧症をその自然的経過に比して著しく増悪させて脳出血を発症するに至ったと認めることもできないから、亡治一の死亡をもって補償法一五条の「公務上死亡した場合」に該当するとは認められない。

なお、被告には原告の主張するような意味での労働者の健康についての安全保護義務はなく、その義務違反によって亡治一が死亡したものとも認められない。

本件訴訟の主たる争点は、〈1〉補償法一五条の「公務上死亡」した場合とはいかなる場合を意味するのか、〈2〉亡治一の職務が特に過重な職務と認められるか否か、〈3〉右職務に従事したことにより、亡治一の基礎疾患である高血圧症を著しく増悪させる結果になったか否かにあると解されるので以下、順次検討する。なお、その他、原告の主張するような労働者の健康についての安全保護義務が被告にあるのか否か、被告に右義務違反があったか否かについても、一応、検討することとする。

2  公務上外の認定基準

補償法一五条は、公務員が「公務上死亡」した場合、すなわち公務災害と認められる場合に遺族補償給付をなすべき旨規定しており、公務災害と認められるためには、当該災害(疾病、以下、単に「当該災害」という。)が公務に従事していなかったならば生じなかったであろうという「公務遂行性」を条件として、公務が当該災害と条件関係にあるもろもろの原因のうち、相対的に有力な原因と認められること、すなわち「公務起因性」が必要であるとされている(したがって、当該災害が公務に従事していたことを単なる機会として生じたにすぎない場合には、公務起因性を認めることができない。)。そこで以下に「公務起因性」の意義及び公務上外の認定基準について述べることとする。

なお、原告は、被告に職員の健康についての安全保護義務違反があり、その場合には公務上の災害と認められる旨主張するのでこの点についても触れることとする。

(一) 公務起因性の意義

補償法一五条における公務災害と認められるためには、公務遂行性を条件として公務起因性が認められなければならないが、公務起因性とは、当該災害と公務との間に相当因果関係が認められることと解すべきである。

これに対し、原告は、当該災害と公務との間に相当因果関係を要求することは誤りであるとし、単に両者間に「合理的関連性」があれば足りるとするようであるが以下に述べるように失当である。

すなわち、補償法一五条は、国家公務員法九三条及び九四条三号に基づく規定であるところ、同法九三条は「職員が公務に基づき死亡し、又は負傷し、若しくは疾病にかかり、若しくはこれに起因して死亡した場合」にその受ける損害を補償しようとするものであり、右「基づき」や「起因して」という文言が公務と災害との因果関係を要求した規定であることは明らかであり、これを受けた同法九四条三号及び補償法一五条にいう「公務上」という文言も同様の意義内容を有するものと認められる。

また、原告は、労働者災害補償保険法上における「業務上」の意義について論じ、労災補償制度は損害賠償制度の目的を異にしており、立場の交換可能性は全くなく、加害者を保護する必要性は全くないのであるから対等な市民相互間に適用される損害賠償制度の要件である「相当因果関係」論を労働者の保護を目的とする労災補償制度に持ち込むことは誤りであるとし、右解釈を「公務上」の解釈にも及ぼそうとするようである。しかし、いうまでもなく公務災害の原資は、国民の税金であって、いかに公務員災害補償制度の目的が公務員及びその家族の救済保護にあるからといって、無制限な公務災害認定が許されないのは当然であるところ、公務災害認定の外延を規定し、公務上外を区別する合理的な基準として、相当因果関係論が有効に機能することは疑いがなく、一方、原告が主張するところの合理的関連性説は、合理的関連性の概念が不明確であって、かかる概念をもって右機能を果たし得るかはきわめて疑問であるといわざるを得ない。

公務災害の要件として公務起因性が必要とされ、公務起因性が公務と災害との相当因果関係を意味するものであることは、既に行政実務及び判例上、確立されたところである。

結局、この点に関する原告の主張は、全く独自の主張であって、到底首肯することができない。

(二) 脳血管疾患などの公務上外の認定基準

(1) 脳血管疾患などの公務上外認定の困難性

公務起因性が、公務と災害との間の相当因果関係を意味するものであることは、前述のとおりであり、相当因果関係を認められる場合とは、〈1〉素因、基礎疾患がなく、専ら公務遂行上のリスクファクターを単一原因として発症する場合、〈2〉素因、基礎疾患はあるが、公務遂行上のリスクファクターが相対的に有力な共働原因となって発症する場合、〈3〉素因、基礎疾患などがあって、その自然的経過を超えて早期に発症又は著しく増悪したと認められる場合であり、一方、〈4〉素因、基礎疾患などがあり、公務遂行中に発症又は増悪したがそれが基礎疾患などの自然的経過の範囲内であれば、それは単に公務遂行を機会原因としたにすぎないから、相当因果関係を認めることができないことになる。

しかるに、当該職員に本態性高血圧症などの基礎疾患がある場合、脳出血などの発症又は増悪が右基礎疾患の自然的経過によるものか公務の遂行によって自然的経過を超えて発症又は著しく増悪したものかの判断には通常、困難を伴うことになる。けだし、脳出血、クモ膜下出血、脳梗塞、高血圧性脳症などの脳血管疾患や一次性心停止、狭心症、心筋梗塞症、解離性大動脈瘤などの虚血性心疾患にあっては、〈1〉特定の官職の職員又は特定の勤務条件下の職員において疫学的に有意に発症すると認めるに足るデータがなく、〈2〉発症に顕著な個人差があり、さらに素因、基礎疾患などの有無、経験などによりその差は変化するとされており、〈3〉生活環境におけるリスクファクターの占める役割が大きく、職務によるリスクファクターとの分別ができないからである。

(2) 行政実務上の公務上外の認定基準

職員の災害補償について定めた人事院規則一六-〇によれば、脳血管疾患などの疾病が公務上の災害と認められるためには、同疾患が「公務に起因することの明らかな疾病」(別表第一八号)に該当する場合でなければならないとされているところ、前述のとおり、当該職員に本態性高血圧症などの基礎疾患がある場合、脳出血などの発症又は増悪が右基礎疾患の自然的経過によるものか公務の遂行によって自然的経過を超えて発症又は著しく増悪したものかの判断には通常、困難を伴うことになるので、行政実務上、以下の認定基準(人事院事務総局職員局長通知昭和六二年一〇月二二日職補五八七号)を設けて右判断の適正を期している。

すなわち、右認定基準によれば、当該脳血管疾患などが「公務に起因することの明らかな疾病」と認められるためには、〈1〉発症前に職務に関連してその発生状態を時間的・場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したことにより又は日常の職務に比較して特に質的に若しくは量的に過重な職務に従事したことにより、医学上当該脳血管疾患及び虚血性心疾患などの発症の原因とするに足る精神的又は肉体的負荷(以下「過重負荷」という。)を受けていたこと、〈2〉ことに基礎疾患などがあった場合には、職務による精神的又は肉体的負荷が脳血管疾患などの自然的発症又は増悪に比し、著しく早期に発症し、又は急速に増悪させる原因となったものとするだけの強度を有すること、〈3〉右過重負荷を受けてから症状が顕在化するまでの時間的間隔が医学上妥当と認められることが必要とされている。

右要件は、あくまでも医学上の一般的知見を基礎としながら、公務起因性の外延を明確に画しようとしたものであり、脳血管疾患などにおいては、職員個々人の素因、基礎疾患などに加えて生活環境因子と職場環境因子とが相互に関連しており、その発症に至るまでの経過が複雑で、著しい個人差があり、生活環境因子と職場環境因子との寄与分を判定することが困難であることに鑑みるときは有用かつ合理的な基準ということができる。かかる基準を設けることなしに単に公務と当該疾病との合理的関連性があれば、足りるとするときは、公務災害の範囲は無制限に拡大されるおそれがあり、国民の税金を原資として行われる公務員災害補償の適正な運用を期し難い結果となろう。

以下に順次、〈1〉過重負荷の概念及び〈2〉基礎疾患が存在する場合の認定の留意点について、さらに詳論することとする。

ア 過重負荷の概念

過重負荷とは、前述したとおり、その発生状態を時間的・場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したことにより又は日常の職務に比較して特に質的に若しくは量的に過重な職務に従事したことにより、医学上当該脳血管疾患などの発症の原因とするに足る精神的又は肉体的負荷をいう。

このうち、「異常な出来事」とは強度の精神的又は肉体的負荷を起こす可能性のある突発的で異常な出来事であり、「日常の職務に比較して特に質的に若しくは量的に過重な職務」とは、通常に割り当てられた職務内容に比較して特に過重な職務をいい、例えば、〈1〉日常肉体労働を行わない職員が特別な事態などにより、特に過重な肉体的労働を必要とする職務を命ぜられ、当該職務を遂行した場合、〈2〉特別な必要により、日常の職務に比較して勤務時間及び業務量の面で特に過重な職務の遂行を余儀なくされた場合がこれに該当する。

なお、右過重負荷の認定に当たっては、発症前日から直前の勤務状況を十分に調査すべきとされているが、これはこの間の職務が発症に最も密接な関連を有するからである。また、発症前一週間の勤務状況についても急激で著しい増悪に関連があるので調査すべきとされており、さらに右発症前一週間以内の職務の過重性の付加的要因として発症前一か月の勤務状況を調査するものとされている。

ところで、後述するように亡治一の発症前日ないし直前の勤務状況は、日常の勤務に比較して勤務時間及び業務量の面で特に過重な職務の遂行を余儀なくされていたものではないし、これを発症の一週間前ないし一か月前にさかのぼってみても、同様である。

イ 基礎疾患が存在する場合の認定の留意点

前述したとおり、職員に本態性高血圧症などの基礎疾患があった場合には、職務による精神的又は肉体的負荷が脳血管疾患などの自然的発症又は増悪に比し、著しく早期に発症し、又は急速に増悪させる原因となったものとするだけの強度を有することが必要であるとされている。

これは、本態性高血圧症などの基礎疾患がある場合は、脳出血などの脳血管疾患などを発症する可能性が高いとされており、この場合、公務に起因しない日常起居動作などの原因によっても発症し、または増悪することが多く、前述したとおり、生活環境因子と職場環境因子とが相互に関連しており、その発症に至るまでの経過が複雑で、著しい個人差があり、生活環境因子と職場環境因子との寄与分を判定することが困難であることによるものである。

ところで、後述するように本件においては亡治一の職務による精神的又は肉体的負荷が、亡治一の本態性高血圧症の自然的経過による脳出血などの脳血管疾患の発症を著しく早期に発症せしめ、又は急速に増悪させる原因になったとするだけの強度を有するものとは認められない。

(三) 原告の主張する職員の健康についての安全配慮義務について

原告は、被告には、職員の健康についての安全配慮義務(早期発見治療義務及び適正労働配置義務)が存し、被告が右義務に違反したことにより亡治一の死亡という結果が発生したのであるから、亡治一の死亡は公務上の災害であると主張している。しかし、以下に述べるとおり、原告の主張は失当である。

(1) 安全配慮義務の不存在

原告の主張するところの安全保護義務(早期発見治療義務及び適正労働配置義務)についてはこれを認めることができない。

ア 労働安全衛生法などについて

公務員と国との関係は、その一面において雇用契約としての実質を有することは否定できないが、本来、労働者は使用者に労務の提供をし、その反対給付として賃金(給与)を得ているのであるから、債務の本旨にしたがった労務の提供をする義務があり、このことは完全な労務ができる心身の状態で労務の提供をすることを意味し、第一次的な健康管理義務は、労働者自身に属しているといわなければならない。したがって、国が労働安全衛生法(以下「安衛法」という。)の適用の下に公務員の健康について配慮しているのは、公務が国民の生活に重大な影響を与えることから公務の能率的な遂行を図る趣旨に出たものであって、本来二次的なものにすぎない。

また、安衛法の趣旨に照らしても、第一次的な健康管理義務が労働者自身に属していることは明らかである。

すなわち安衛法は、事業者は労働者に対し、労働省令で定めるところにより、医師による健康診断を行わなければならないと規定し(同法六六条一項)ているが、一方、労働者は事業者の指定した医師の行う健康診断に相当する、他の医師による健康診断を受け、その結果を証明する書面を事業者に提出すれば、受診義務を免れるとしており(同条五項但し書)、かかる規定などによれば、健康管理義務は第一次的には労働者に帰属し、事業者は第二次的にしかも法の定める健康診断の実施とその結果を通してのみ労働者の健康に配慮するにすぎないというべきであり、原告の主張するように健康診断の結果いかんにかかわらず、常に労働者の健康障害の早期発見、予防に努め、かつ、これにより必要に応じて適切な配置又は作業転換及び労働時間の短縮などの措置をとるべきであるというような意味内容の安全配慮義務を被告が負っているとは解し難い。

イ 健康管理規程について

郵政省では、右安衛法の趣旨を受けて、職員の健康管理について郵政省管理規程(以下「健康管理規程」という。)を設けているが、これによると局所長は、定期健康診断、特別健康診断及び臨時健康診断を実施し、健康管理医の医学的判定に基づいて、要休養者や要治療者に対しては、休暇を与えたり、勤務場所などの変更や勤務時間の短縮を行うなどの措置を講じ、要指導者に対しては、適切な指導を行うとされており、一方、職員が健康診断以外の診断によって要軽業者又は要休養者に該当するものと診断された場合に、当該職員はその診断書を添付してその旨局所長に届出なければならず、局所長は、これについて健康診断などによる措置に準じて適宜な措置をとるべきものとされている。

このような健康管理規程の規程の趣旨に照らしても、局所長は、第二次的にしかも法の定める健康診断の実施とその結果を通してのみ職員の健康に配慮するにすぎないというべきであり、原告の主張するような意味での安全配慮義務を被告が負っているとは解し難い。

(2) 安全配慮義務違反と公務上の災害の関係

原告は、被告には、職員の健康についての安全配慮義務(早期発見治療義務及び適正労働配置義務)が存し、被告が右義務に違反したことにより亡治一の死亡という結果が発生したのであるから、亡治一の死亡は公務上の災害であると主張している。

しかし、原告が主張するような意味での安全配慮義務が被告にあるとは到底解し難いが、仮に被告に職員に対する健康配慮義務があるとしても、その違反による疾病の発症が損害賠償請求訴訟における請求原因になり得るのは格別、公務上の災害に当たるとする根拠にはなり得ない。被告が職員に対して負担する健康配慮義務の違反により生じた損害を賠償することと当該災害が公務に起因する災害であると認定してこれをも公務員災害補償の対象とすることでは、適用の場面が違うのであり、公務に起因する災害であれば被告の健康配慮義務違反の有無を問わず、公務災害と認められる一方、被告に健康配慮義務違反があったからといって当該災害が当然に公務災害となる法的根拠を見出し得ない。

3  亡治一の職務内容について

亡治一が脳出血を発症した当時、その発生状態を時間的・場所的に明確にし得る異常な出来事があったと認めるに足りないことは明らかであるから、本件においては亡治一が、その日常の職務に比較して特に質的に若しくは量的に過重な職務に従事していたか否かが重要な争点となるところ、以下に述べるとおり、亡治一の従事していた職務は郵便課副課長の業務として通常の範囲内にあったものというべきであり、脳内出血が亡治一の従事した業務を有力な原因として発症したものと認めることはできない。

公務上外の認定に当たっては、当該職員の〈1〉生年月日及び経歴、〈2〉職務内容及び最近の勤務概要、〈3〉勤務状況及び発症状況などが調査事項とされているので順次、検討する。

(一) 亡治一の職務経歴

亡治一(昭和二年六月二六日生)は、昭和一七年一〇月に名古屋逓信講習所普通科第一部に入学し、同一八年九月同部を卒業して同年同月津郵便局勤務、翌一九年二月桑名郵便局勤務となり、採用以来郵便業務に従事した後、同四四年四月一四日名古屋東郵便局郵便課主事、同四八年一〇月一日四日市郵便局集配課課長代理、同四九年七月二七日東海郵政局人事部厚生課課長補佐(辻町寮寮務主査)を経て、同五二年七月二六日付けをもって昭和郵便局郵便課副課長となった。

(二) 亡治一の職務内容及び直近の勤務概要

(1) 郵便局郵便課副課長の職務

郵便局郵便課副課長の職務は、課長を助け課務の一部を総括整理し、及び課務の運行上必要に応じ課長の職務を代行する(郵便局組織規程二二条の四第二項)と規定されていることからも明らかなようにその本来の職務内容は、いわゆる管理業務であり、本来の副課長の職務は職場の秩序の維持や正常な業務運行、職員の指導・監督である。

ところで、いわゆる管理業務においては、肉体的負荷よりも精神的負荷の有無・程度が問題とされるが、当時の昭和郵便局郵便課副課長の本来の職務は勤務状況記録表の作成や職場訓練の企画・立案及びその実施後の日誌の記帳・報告、年末の非常勤雇用関係の起案などであり、その職務はそれほど複雑なものではなく、責任の度合も課長に比較すれば軽く、昭和局にあっては、局情も比較的安定していて職場の秩序維持の観点から副課長の特段の指導・監督を要するような事情もなく、また、特に業務の運行上、支障となるような特段の事情もなかったから、亡治一の職務内容が特に過重な精神的負荷を要求するようなものであったとは認め難い。

なお、原告は、亡治一が昭和五二年七月二六日、昭和郵便局郵便課副課長に転任させられたことに伴い、従前の職務とは異なる郵便課業務に携わることになったことを精神的負荷の原因の一つであると解しているようであるが、確かに亡治一は、管理業務的な机上事務に比べて、約三一年間にわたって従事してきた郵便業務経験から、むしろ差立区分作業などの実務に習熟していたと認められる。しかし、亡治一には昭和四八年一〇月一日から翌四九年七月二六日までの間、四日市郵便局集配課課長代理を勤めていたことがあり、いわゆる管理業務の経験が全くなかったわけではないし、また、後述するように実際には自ら進んで差立・区分作業に従事して、いわゆる机上事務に従事する時間は短かったと認められるので、原告の指摘は妥当せず、亡治一にとって副課長の職務が本来管理業務であるが故の精神的負荷は少なかったと解される。

(2) 亡治一の直近の勤務概要

原告は、亡治一が特に過重な職務に従事していたと主張するもののようであるが以下に述べるように原告の主張は理由がない。

ア 職務の過重性の評価時期

行政実務における認定基準によれば、前述したとおり、職務の過重性を評価するに当たり、最も重要なのは発症前日から直前までの勤務状況であり、この間の職務が発症に最も密接な関連を有すると認められる。そして、発症一週間以内に過重な職務が継続している場合には、発症との直接の関連性は希薄になるが、著しい増悪について関連があると認めることはできるので一応考慮の対象となし得るとされている。さらに発症前一ヵ月間の職務の過重性については、本来発症前一週間より前に過重な職務が継続していても、発症についてはもとより、急激で著しい増悪についても直接の関連性を認め難いが、発症前一週間前の職務の過重性の評価の付加的要因として考慮に値するとされている。

当該過重な職務に従事していた時期が、発症時期から離れるにしたがって、発症ないし著しい増悪との間の関連性が希薄となるのは当然であり、発症前一ヵ月より以前の職務の過重性については、これを評価の対象とする必要性はないと解される。

しかるに、原告が指摘している〈1〉昭和郵便局の集中処理化に伴う事務繁忙の時期は、仮にそういう時期があったとしても発症前一ヵ月よりも前であると認められ、本来その過重性の評価を行う必要性はないといわなければならないし、〈2〉昭和郵便局郵便協力会の設立について加入の勧誘や設立総会の通知発送などの業務も、設立総会のあった昭和五二年一一月一六日の一週間前ころにはおおよそ終了していたと認めるのが相当であるから、仮に亡治一がこれに従事したことがあったとしても単なる付加的な要因として考慮されることがあるにすぎない。また、〈3〉年賀葉書の事前把握に関する業務も後述するように関係証拠上、その配達を除いて発症一週間前には終了していたと認められるから、同様に単なる付加的な要因にとどまるものというべきである。

しかし、念のため、原告の指摘する各事情により亡治一の職務が日常の職務に比して、特に質的に若しくは量的に過重な職務に従事していたと認められるか否かについて検討することとする。

イ 昭和郵便局の集中処理化に伴う事務繁忙と職務過重性

昭和郵便局は、昭和五〇年九月一六日、局舎新築のため、熱田区六番町の仮局舎へ移転し、昭和五一年四月四日から、現在の新庁舎にて業務を開始したが、同年四月二四日には郵便物自動選別取揃押印機(以下「選取押印機」ともいう。)及び郵便番号自動読取区分機(以下「読取区分機」ともいう。)が稼動を開始し、同年五月三〇日から普通通常郵便物の集中処理が開始された。

右集中処理化の概要は、以下のとおりであり、原告の主張するように右集中処理化にともなって、昭和郵便局の事務が繁忙化し、亡治一の職務が日常の職務に比して、質的又は量的に過重になったとは認められない。

(ア) 集中処理化以降の郵便物の取扱件数及び手作業による工程別物数

昭和郵便局における集中処理化以降の郵便物の取扱件数は、集中処理化以前は、約一三八万七九〇〇通であるのに対し、集中処理化以後である昭和五二年六月以降一一月までの手作業による差立区分数は、

六月 一九二万〇三五六通

七月 二〇二万三二三四通

八月 一六三万三九五三通

九月 一九五万二八三二通

一〇月 一九三万五三二七通

一一月 二〇四万九一一三通

である。

(イ) 要員配置と一名当たりの月平均取扱物数

集中処理化にともない、千種郵便局は減員九名(休暇要員一名を含む。)、瑞穂郵便局は減員一名となったが、昭和郵便局郵便課は増員九名となった。

昭和郵便局郵便課における集中処理化以前の三ヵ月間の一日平均要員配置人員は七・一名であり、一名当たりの月平均取扱物数は一九万五八〇〇通であるのに対し、集中処理化以後である昭和五二年六月以降一一月までの六ヵ月間の一日平均要員配置人員(機械要員を含まない。)は九・八名であり、一名当たりの月平均取扱物数は一九万五七九三通であり、集中処理化以前と大差はない。

(ウ) 郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機の稼動状況

集中処理化に伴い右選取押印機及び読取区分機の取扱に関する訓練を実施したが、機械操作要員に対しては各機械の理論と実習を合計五時間、機械操作要員を指導する者一〇名以内の者に対しては、各機械の概要、動作原理、操作理論、保守調整及び実務について合計一九時間の訓練が行われたので職員に対する訓練が不十分であったとはいえない。

なお、確かに原告の指摘するように右選取押印機と読取区分機を導入した当初の昭和五二年四月の下旬ころは、機械のベルトがはずれたり、郵便物が挟まったりして一時的に運転を停止をするようなこともあったが、いずれの機械についても大体八月の中旬ころには順調に稼動していたものと認められる。

(エ) 亡治一の差立区分作業への従事と職務の過重性

亡治一は、本来の職務の範囲外である差立区分作業にも従事していたが、職務の過重性を判断するに当たり、重要なのは昭和局としての取扱件数の増加や残物数の増加ではなく、一名当たりの取扱物数であるところ、昭和局の集中処理化に伴って、昭和局の取扱件数が倍増した分、増員もあり(九名の増員すべてを差立区分業務に従事させている。)(イ)で述べたとおり、集中処理化以前は一名あたりの月平均取扱物数は十九万五八〇〇通であったのに対し、集中処理化以後である昭和五二年六月以降一一月までの六ヵ月間の一名当たりの月平均取扱物数は一九万五七九三通であり、一名当たりの作業量としては集中処理化以前と大きな差はない。なお、右数字は機械要員四名を除外しており、実際に機械が稼動している時間はおおよそ四時間位であり、その余の時間、機械要員も手作業による差立区分作業に従事していること、集中処理化後、非常勤職員も増員していることも考慮するならば、その差はさらに少ないと解される。

したがって、少なくとも機械の運転に職員が慣れた昭和五二年八月以降は、差立区分の作業の職務が特に過重であったとは認め難く、亡治一が脳出血を発症した昭和五二年一一月一六日の時点あるいはその一週間前ないし一ヵ月前ころ、亡治一が差立区分作業に従事することが多かったとしてもその職務が日常の職務に比較して、質的又は量的に特に過重であったとは認められない。

まして、亡治一は、上司である課長の下命がなく、差立区分作業がそれほど繁忙でないにもかかわらず、自ら進んで差立区分作業に従事していたものであり、上司である増子勲郵便課長はむしろ本来の管理業務に従事してくれることを希望してその旨亡治一に指示したが、亡治一がこれに応じなかったのであるから、仮に差立区分作業の過重性が肯認されるとしても亡治一が右差立区分作業に従事したことをもって、過重な職務の遂行を命ぜられ、あるいは余儀なくされたといえない以上、公務起因性を認めることはできない。

以上のとおり、亡治一について昭和郵便局の集中処理化に伴う事務繁忙により、日常の職務に比較して、質的又は量的に特に過重な職務への従事を余儀なくされたとは認められないから、原告のこの点に関する主張は、理由がない。

ウ 郵便協力会設立に伴う事務繁忙と職務過重性

亡治一が昭和郵便局郵便協力会の設立について加入の勧誘や設立総会の通知発送などの業務の担任を命ぜられていたことによりその職務が過重であったということはない。

郵便協力会とは、郵便局を利用する区内の顧客の中から代表者を選び、郵便局の業務についての意見要望を徴して、業務に反映させるためのものである。

昭和郵便局における郵便協力会設立業務は、昭和五二年一〇月五日に設立準備委員会を発足させて、同月上旬から中旬にかけて大口得意先約五〇箇所を対象として各管理職員が手分けをして加入勧誘などを行っていたが、亡治一は昭和郵便局への着任後、日が浅いなどの理由から加入勧誘などの活動はほとんどしていなかったものであり、増子勲郵便課長から指示を受け亡治一が従事したのは、同会の会費についての出納事務と同年一一月五日の会員約六六名を対象とした同会設立総会の通知及び出欠回答について封書の宛名書きとその郵便の発送事務程度であった。

右のとおり、加入勧誘が中心的に行われたのは昭和五二年一〇月下旬ころまでであると認められ、右勧誘の業務及び設立総会の通知などの発送の業務は少なくとも設立総会のあった同年一一月一六日の一週間前ころまでには、終了していると推定されるから、いずれも亡治一の脳出血発症の一週間より前の職務であり、仮に亡治一がこれに従事していたとしてもその過重性を評価する必要性に乏しい。

また、そもそも勧誘の業務や設立総会の通知などの宛名書き、あるいは同会の会費の出納事務は、それ自体が質的又は量的に過重なものであるとは到底考えられない。なお、亡治一が宛名書きについて一部自宅に持ち帰って原告本人の協力を得ていたものであるが、その通数は多くても六五、六通程度であり、これも本来は、在庁中にできるにもかかわらず、在庁時にするようにとの増子勲郵便課長の指示に従わずに持ち帰って原告本人の協力で書いたものである。

以上のとおり、亡治一が昭和郵便局郵便協力会の設立に関する業務に従事したことにより、その日常の職務に比して、質的又は量的に過重な職務に従事していたとは認められず、原告の主張は理由がない。

エ 年賀葉書の事前把握などによる事務繁忙と職務過重性

亡治一が年賀葉書の事前把握などの業務の中心となって行っていたことなどにより特に過重な職務に従事していたということはない。

すなわち、年賀葉書の発売は昭和五二年一一月五日ころであり、いわゆる大口販売の事前把握は、そのころまでには終了していたはずであるし、その配達も発売日から二、三日の間に行われるので、亡治一の脳出血発症時の一週間より前ころには当該業務は終了していたと推定されるし、亡治一が担当した業務は、注文を受けた年賀葉書を税務署など二、三箇所に配達した程度であり、配達は郵便課の経理及び集配課の経理が中心となって行っていたものであり、その職務自体も注文枚数を注文先へ自動車ないし、自転車で配達するという単純な作業であって、到底その職務の過重性を認めることはできない。

以上のとおり、亡治一の職務及び最近の勤務概要などに照らして、亡治一が日常の職務に比して、特に質的又は量的に過重な職務に従事していたと認めることはできない。

(三) 亡治一の勤務状況及び発症状況

亡治一の勤務状況は、昭和郵便局と同規模の郵便局の副課長のそれとしては、ごく普通であり、特にその勤務時間が長く仕事が苛酷であったとは認め難く、発症当日の状況についても特に職務との関連でその発生を時間的・場所的に明らかにし得る異常な出来事がなかったのはもちろんのこと、特にその勤務時間が長かったわけでもなく、その職務が日常の職務に比して、加重であったということはない。

(1) 亡治一の勤務時間

亡治一の勤務は、本来、午後一時から同九時五分であるが、実際には毎日午前一〇時ころに出勤し、午後九時三〇分ころまで勤務しており、実質的には日々二時間ないし二時間三〇分程度の超過勤務(ただし、必ずしも正規な職務命令に基づくものではない。)を行っていた。

しかし、管理者が他の者より早く出て遅く帰るという勤務態様は昭和郵便局郵便課副課長のそれとしては慣行的なものであり、昭和郵便局の集中処理化に伴って特別に勤務時間が増加していたわけではなく、亡治一の前任の副課長も同様であり、近隣の同規模の郵便局における郵便課副課長と比較して、特に過重な勤務状況にあったとはいえない。

右勤務時間中の差立区分作業をはじめとする職務内容が特に質的又は量的に過重でなかったことは前記(二)に述べたとおりであるし、また、昭和五二年一一月一六日の発症当日前の一週間ないし一か月間の勤務時間も通常に比して、特に長時間であったとはいえない。

なお、通勤時間も自宅から局まで自転車で二〇分くらいであったから、通勤時間を考慮にいれてもそれほどの過重負担であったとは解し難い。

なお、付言するに亡治一は昭和局の郵便課副課長に転任する前は、寮務主査として辻町寮長を三年間勤めており、寮長の正規の勤務時間は午前八時から午後五時一五分までとされていたが、実際には寮生の出勤時間に従って午前七時三〇分出勤の者がいれば、寮は午前六時三〇分ころには開門しなければならないから、寮長の勤務もそのころから開始され、一方、門限の午後一一時までは事実上、拘束時間とされていた。したがって、勤務時間の比較においてはむしろ寮長時代の方が過重であったとさえいえるのであって、寮長の職務と比較しても昭和局郵便課副課長の勤務時間が特に過重であったとはいえない。

(2) 亡治一の発症状況

亡山内治一は、昭和郵便局郵便課副課長として勤務中の昭和五二年一一月一六日午後六時五〇分ころ、休憩時間中に夕食をとるために外出し、その帰局途中に同局近隣の薬局の前の路上で倒れ、直ちに救急車で名古屋市昭和区滝子町二七番地安井病院に収容されたが、意識不明のまま翌一七日午前四時四〇分死亡した。死亡原因は、脳出血と診断された。

前述のように、職務の過重性を評価するに当たり、最も重要なのは発症前日から直前までの勤務状況であり、この間の職務が発症に密接な関連を有すると認められるが、発症当日の勤務内容及び勤務時間が平常時と異なっていたということはない。

亡治一は、午前一〇時ころ出勤し、中勤者のミーティングに出席し、その後、おそらくは差立区分の業務に従事し、午後一時ころに昼食をとったことが一応推測できる。

その後、亡治一が午後一時二〇分ころ再び業務につき、同僚の運転する車に同乗して昭和税務署に年賀葉書を配達したとしても、同僚の運転する車によって配達したものであるし、二人以上で配達したというのであるから(二人以上で何人であるかは不明である。)、特に質的又は量的に過重な職務であるとは解し難い。

その後、亡治一は、再び差立区分作業に従事していた可能性が高いが、当日の取扱物数が当時の平常的な取扱数を大きく上回るものであったとはいえない。

以上によれば、当日の職務が日常の職務に比して、特に過重であったということはできない。

そして、亡治一は、午後六時四五分ころ、近隣にあるキッチン「和」で夕食をとるために外出し、帰局する途中で気分が悪くなり、薬局に寄った際に脳出血を発症して薬局前の路上に倒れたものである。

(四) 結論

以上述べたとおり、亡治一の職務の内容はそれ自体特に過重なものとはいい難いし、職務と関連して、その発生状態を時間的・場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したことがないのは明らかであり、さらにその職務内容や最近の勤務の概要に徴して、日常の職務に比較して特に質的若しくは量的に過重な職務に従事していたとは認められず、勤務状況も特に勤務時間が通常に比して増大していたわけではなく、発症当日も特に過重な職務に従事していたとは認められないから、公務起因性を認めることができず、亡治一の死亡は公務災害に当たらない。

4  亡治一の病態

前述したとおり、亡治一には、本態性高血圧症という基礎疾患があったのであるから、職務による精神的又は肉体的負荷が脳出血などの脳出血管疾患の自然的発症又は自然的増悪に比し、著しく早期に発症し、又は急速に増悪させる原因となったと認め得るだけの強度を有するものでなければ、職務と災害との相当因果関係を認めるに足りない。

しかるに亡治一の職務が自然的発症又は自然的増悪に比し、著しく早期に脳出血を発症せしめ、又は急速に増悪させるに足るだけの質的又は量的な過重性を有するものとはいえず、以下に述べるとおり、亡治一がかねて有していた基礎疾患である本態性高血圧症が自然経過的に進展した結果、発症したものと認めるが相当である。

(一) 亡治一の死亡原因

亡治一の死亡原因は脳出血であり、また、亡治一の脳出血の主たる原因は本態性高血圧症の基礎疾患の増悪によるものである。

したがって、ここでの争点は、亡治一の本態性高血圧症が自然的経過を超えて、著しく増悪したと認められるか否かにあるところ、後述するように亡治一の本態性高血圧症は、高い危険性を維持したまま、一進一退を繰り返していたものであり、昭和五二年一一月一六日における脳出血の発症が右自然的経過を超えて、基礎疾患の著しい増悪により早期に発症したものとは認められない。

(二) 本態性高血圧症の病態

(1) 発症因子

本態性高血圧症の発症に関与する因子としては、何代かにわたる食塩の過剰摂取とそれに関連する遺伝性因子、レニン-アンギオテンシン-アルドステロンの調節不全、プロスタグランデイン産性代謝異常、精神的ストレスと血管反応中枢の関与、交感神経受容体の異常、加齢や動脈硬化性変化など考えられるが、もとよりこれらの単独因子で本態性高血圧が発症するのではなく、外的因子と内的因子とが複雑に絡み合って、定量的にはいずれかが優位に立ついくつかの組合わせの病態が本態性高血圧症を成り立たせるものと考えられている。

亡治一について、本態性高血圧症が発症した原因については、これらの内外因子の関与があり、単一の因子によるものでないことは明らかである。

(2) 症状

本態性高血圧症の症状は、進展に伴う臓器障害度によってさまざまであり、臓器障害を伴わない場合は、高血圧性脳症を除いて症状はないが、各臓器に障害が起こると頭重、頭痛、めまい、肩こり、息切れ、動悸、易疲労感などの自覚症状が現れ、さらに進展すれば、一過性脳虚血発作を含む脳血管障害の警告症状、狭心症症状、腎機能障害に伴う症状、閉塞性動脈硬化症状(腎部下肢の痛み、四肢のしびれ感など)が加わるとされている。

亡治一は、関係証拠によるとめまい、肩こりの自覚症状を訴えている。

(3) 予後

本態性高血圧症は、多くは三〇代後半から血圧が上昇してくるが、初期は動揺性の高血圧を示し、境界域高血圧の時期を経て、固定性の高血圧になる。本態性高血圧症が放置されれば、五〇歳前後から脳卒中(脳溢血)や心筋梗塞などにり患する症例が増加してくる。

高血圧の予後については、高血圧の成因が単一でないことや重症度が異なること、さらに治療の効果によって予後が大きく変化するとされているが、現在では種々の有効な降圧剤が開発され、降圧療法も顕著な発展を遂げており、降圧療法を用いて血圧を正常化し続ける努力によって高血圧患者の生命予後は飛躍的に改善され得る。一方、未治療者や不十分な治療者に関しては有効な降圧剤がなかった時代と同様な生命に対する危険性があることになる。

後述するように亡治一のコンプライアンス(服薬成績)は不良であり、このことが亡治一の生命に対する危険性を増大させていた。

(4) 治療

本態性高血圧症は、原因が不明であり、完全な根治療法は存在しないが、一般療法及び食事療法により種々の危険因子(喫煙、飲酒、肥満、食塩の過剰摂取、糖尿病など)を除外し、さらに薬物療法により長期間継続的に治療を中断することなく、血圧を正常あるいは正常に近い状態に保つことが重要である。

すなわち、一般療法としては生活にリズムを与えて喫煙や飲酒を控えさせる一方で適度な運動を行わせ、食事療法としては食塩を制限して肥満や糖尿病を有するものにはカロリー制限及び糖質の制限を行い、標準体重に近づけるようにする。薬物療法が重要であることは、前述したとおりであり、治療は継続的に行う必要があり、断続的な治療は意味がないか、あるいは薬物によっては中断によって血圧を動揺させる結果になり、かえって危険な場合すらあるとされている。

しかるに亡治一においては、後述するとおり、これら一般療法ないし食事療法が十分になされていたかきわめて疑問である。

また、コンプライアンスについては、後述するとおり、不良であって、継続的な治療を行っておらず、このことが亡治一の本態性高血圧症の増悪をもたらした主要な原因である。

(三) 亡治一の本態性高血圧症の増悪の原因

亡治一の本態性高血圧症が増悪した原因は、その職務の過重性に求められるべきではなく、以下に述べるとおり、既に相当程度高い危険性を維持したまま、一進一退を繰り返していた本態性高血圧症が、治療の中断などより自然的経過を経て増悪したものと認めるのが相当である。

また、前述したように職員の健康管理の第一次的責任は職員自身にあり、局所長はあくまでも法令の定める健康診断などによる医学的判断に基づいてその限りで第二次的に職員の健康管理に当たるべきところ、以下に述べるとおり、昭和局では適切な健康管理を行っており、亡治一の本態性高血圧症が増悪したのは、亡治一自身の第一次的な健康管理が十分でなかったことによるものと解する。

(1) 亡治一の本態性高血圧症の推移

亡治一の本態性高血圧症の病態の推移は以下のとおりである。

ア 最大・最小血圧値

亡治一の最大・最小血圧は、昭和四三年五月二九日(当時四〇歳-桑名局郵便課主任)の健康診断において初めて高血圧Aに指定され、その時の血圧値は一七四~一〇八であり、この数値からすると亡治一は、この時よりも数年前から既に高血圧症であったと推定される。

その後、昭和五二年一一月一七日に死亡するまでの間、最大血圧値は一五〇を下回ることは一度もなく、最小血圧値についても一〇〇を下回ることはほとんどなかった。

イ 心胸比の推移

亡治一の心胸比は、概ね五〇パーセントを推移しており、特に昭和四三年五月から四八年五月までは五〇パーセントを超えており、心拡大の所見があるが、昭和四九年四月から昭和五二年一〇月までは五〇パーセント以下である。

ウ 尿蛋白の推移

亡治一の尿蛋白の推移は、+1以上の尿蛋白は、昭和四七年五月から昭和四八年一月と昭和五二年一〇月及び一一月に認められる。

エ その他

亡治一は昭和四七年五月二二日に眼底検査を受け、その結果、眼底にKW[1]度の動脈硬化の所見が認められ、その後、昭和五一年三月三一日に再び眼底検査を受けたが、その結果はKW[2]a~bであり、動脈硬化の症状が進展していた。

(2) 亡治一の昭和郵便局郵便課副課長への転任と本態性高血圧症の関係

以上に述べた亡治一の本態性高血圧症の推移に徴すると亡治一が昭和郵便局郵便課副課長へ転任した後である昭和五二年一〇月及び一一月にみられる諸数値は、過去にも同程度のものが認められ、自覚症状であるめまいも辻町寮長時代に既に訴えており、眼底検査からうかがえる動脈硬化の進展も既に辻町寮長時代に認められる。これらのことから、亡治一の本態性高血圧症の増悪に伴う臓器変化などが、専ら昭和局への転任後に生じたとは認め難く、既に辻町寮長を勤めていたころから臓器変化が現れていた可能性を否定できない。

したがって、亡治一が昭和局へ転任し、その職務の過重性により基礎疾患が増悪したとはいえない。

(3) 亡治一の受診状況ないし健康管理と本態性高血圧症の関係

前述したとおり、優れた降圧剤の開発により、有効な血圧のコントロールが可能となり、現在では本態性高血圧症の治療として薬物療法はきわめて重要とされている。さらに、治療は継続的に行うべきであって断続的な治療は意味がないばかりか、治療の中断によって血圧を動揺させる結果になり、かえって危険な場合すらあるとされている。

しかるに亡治一は、昭和五一年七月一二日に七日分の薬を受け取った後、昭和五二年一〇月一一日までの約一年三か月にわたって、治療を受けておらず、さらに昭和五二年一〇月一一日と一七日にそれぞれ七日分の薬を受け取ったが、同年一一月七日にハイリスク検診の際に検診医に最近一、二週間は服薬を中断している旨述べており、その後、脳出血を発症するまで治療を受けておらず、服薬もしていないと推定される。

このようなコンプライアンスの不良が、亡治一の血圧の適正なコントロールを不可能ならしめ、本態性高血圧症を増悪させた可能性はきわめて高く、逆にいえば、亡治一が継続的な治療を受けていれば、右増悪及び脳出血の発症を防止できたともいえるのである。このことは、亡治一の血圧値が比較的落ち着いている昭和五一年一月ないし三月ころは、亡治一が継続的に治療を受けている時期であり、逆に治療を中断した後は、血圧値が高くなる傾向があることからも明らかである。

また、前述したとおり、本態性高血圧症においては、一般療法及び食事療法により種々の危険因子(喫煙、飲酒、肥満、食塩の過剰摂取、糖尿病など)を除外することも重要であるが、亡治一においては、喫煙と飲酒の嗜好があり、喫煙については一日一箱くらい、飲酒については日本酒二合くらいの分量であり、これを控える努力がされていたか否か疑問で、食塩制限が行われていたか否かも明らかでなく、体重は標準体重を二〇パーセントも超えていた。一方、特に適度な運動をしていたこともなく、このような自己の健康管理の不良も基礎疾患の増悪に寄与したものと解される。

(4) 亡治一に対する昭和郵便局の健康管理

前述したように職員の健康管理の第一次的責任は職員自身にあり、局所長はあくまでも法令の定める健康診断などによる医学的判断に基づいてその限りで第二次的に職員の健康管理に当たるべきところ、昭和郵便局は法令の規定に基づいて健康診断などを実施し、医師による判定区分にしたがって、適切に指導してきた。

確かに郵政省健康管理規程により、昭和五二年一一月七日の時点の血圧値だけを捉えるならば、Cに判定すべきかもしれないが、心電図、心胸比、尿蛋白についてみればBと判定すべきであり、両者の総合的判断の下にBと判定することは必ずしも健康管理規程には反しないし、昭和五二年四月一一日に要治療者から要指導者に変更されているが、要治療者から要指導者への変更それ自体は、専ら内部手続的なものであり、重要なのは現実にいかなる指導がなされたかにあるところ、実際の指導内容は要治療者に対するのと同様の指導をしており、指導の解除をしていないのであるから、昭和郵便局の亡治一に対する健康管理に落度があったとはいえない。

以上のとおり、亡治一の本態性高血圧症の増悪は、昭和郵便局へ転任したことに伴う精神的・肉体的負荷や昭和郵便局の亡治一に対する健康管理上の落度によるものではなく、継続的治療の中断と亡治一自身の健康管理の不十分による基礎疾患の自然的経過によるものである。

5  結論

以上述べたとおり、公務災害と認められるためには公務と災害との間に相当因果関係が認められなければならないところ、亡治一の職務の内容、最近の勤務の概要、勤務状況などに徴して、亡治一の職務が日常の職務に比して、質的又は量的に過重であったとは認め難く、職務上、亡治一の基礎疾患(本態性高血圧症)を著しく増悪させ、脳出血を発症させるほどの精神的・肉体的負荷があったとは認められない。

結局、亡治一の脳出血、死亡は、亡治一の従事した職務を有力な原因として発生したものではなく、亡治一の基礎疾患が治療の中断などにより、自然経過的に進展した結果、発症したものであり、公務と相当因果関係にあるものと認められないから、公務上の災害に当たらない。

よって、原告の請求は理由がない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1(原告の地位)及び同2(亡治一の死亡)の事実は当事者間に争いがない。

二  請求原因3(「公務上死亡」該当性)について検討する。

1  「公務上死亡」の意義

原告は、亡治一の死亡は補償法一五条所定の「公務上死亡」した場合に該当する旨主張するところ、同条にいう「職員が公務上死亡」したときとは、職員が公務に起因する負傷または疾病に基づいて死亡した場合をいうのであり、右のような公務起因性が認められるためには公務と死亡との間に相当因果関係が存在することが必要である。そして、職員が既存の疾患を有し(以下「基礎疾患」という。)、これが原因または条件となって死亡した場合であっても、この理は同様であって、公務が基礎疾患を増悪させて死亡の時期を早めた場合、または公務と基礎疾患が共働原因となって死亡の直接の原因となる疾病を発症させた場合において、公務と基礎疾患の増悪または公務と死亡の直接の原因となる疾病の発症との間に相当因果関係が認められる限り、公務と死亡との間に相当因果関係が肯定され、公務起因性が認められるものと言うべきである。また、公務とその他の要因が共働原因となって基礎疾患を増悪させ、それにより死亡するに至った場合にも、公務と基礎疾患の増悪との間に相当因果関係が存する限り、公務と死亡との間には相当因果関係が認められるものである。

なお、相当因果関係が認められる場合であっても、当該職員が故意または重大な過失により、基礎疾患を発症させ、またはこれを増悪させるなど災害補償制度の趣旨に反する特段の事情が存する場合には、補償法一四条の趣旨に照らし、公務起因性は否定されるべきである。

亡治一の直接の死因が脳出血であり、亡治一は昭和四三年五月二九日の定期健康診断により本態性高血圧症と診断され、右疾患を基礎疾患として有していたものであり、亡治一の直接の死因である脳出血は右基礎疾患の増悪によるものであることは、当事者間に争いがないものであるから、以下、右の見地から亡治一の死亡と公務との間に相当因果関係が存するか否かについて検討することとする。

2  脳出血及び本態性高血圧症と公務との関係

〈証拠〉によれば、脳出血は脳血管障害の一種であり、脳血管障害の発症については高血圧が最大の危険因子となっていること、本態性高血圧症とは、他に何らかの明確な原因を有する二次性高血圧以外の原因不明の高血圧症の総称であり、その発症には遺伝因子、環境因子等が関与していること、本態性高血圧症を増悪させる環境因子としては、肉体的、精神的ストレス、食餌(特に食塩の過剰摂取)、飲酒、喫煙、気候(寒冷)などが指摘されていることが認められ、公務による労働負担はそれが過重な程度に至れば肉体的、精神的ストレスを生じる原因となり得ることは明らかであるから、まず、亡治一の職務の実態及び労働負担について検討し、次に、これが亡治一の基礎疾患である本態性高血圧症に及ぼした影響について検討を加えることとする。

3  亡治一の職務の実態

〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。

(一)  昭和郵便局配転までの勤務状況

亡治一は、昭和一八年九月津郵便局に採用され、昭和一九年二月桑名郵便局勤務を命じられ、採用以来郵便内務業務に従事した後、昭和四四年四月、名古屋東郵便局郵便課主事、昭和四八年一〇月、四日市郵便局集配課課長代理、昭和四九年七月、東海郵便局人事部厚生課課長補佐(寮務主査)を経て、昭和五二年七月二六日付けで昭和郵便局郵便課副課長となった。

亡治一が昭和四九年七月から寮務主査として担当していたのは東海郵政局辻町寮の管理の仕事であるが、同僚は寮生七〇名余り、寮母三名の独身職員用の中規模程度の寮で、職務内容は、建物の管理、寮母の指揮監督、寮生に関する庶務、寮生の生活指導等であり、朝夕の繁忙時を除けば手空き時間がかなりあるものであった。

(二)  昭和郵便局の概況

昭和郵便局は、亡治一の配転当時、庶務会計課、郵便課、第一集配課、第二集配課、貯金課、保険課の六課で構成されており、亡治一の所属する郵便課は、差立区分(郵便差出箱(ポスト)から取り集められ、または郵便局の窓口で引き受けられて昭和郵便局に集められた郵便物の行先別の区分)及び配達区分(昭和郵便局の配達担当地域宛に送られてくる郵便物の区分)等を担当しており、課長、副課長、課長代理各一名、主事三名、主任九名、その他の職員四二名の合計五七名の内務職員から成っていた。

昭和郵便局は、従前、昭和郵便局及び瑞穂郵便局取集(ポストからの取り集め)にかかる郵便物並びに昭和郵便局窓口引受にかかる郵便物の差立義務を行っていたが、昭和五二年四月四日新庁舎における業務が開始され、同月二四日郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機の稼動が開始されたことに伴い、同年五月三〇日以降、従前の業務に加えて千種郵便局取集及び局箱にかかる普通通常郵便物、瑞穂郵便局局箱にかかる普通通常郵便物、千種郵便局及び瑞穂郵便局窓口引受にかかる料金別納後納普通通常郵便物、千種郵便局取集及び局箱にかかる普通速達郵便物、瑞穂郵便局局箱にかかる普通速達郵便物、千種郵便局及び瑞穂郵便局窓口引受にかかる選挙郵便物、千種郵便局及び瑞穂郵便局に紛来(他局の分が紛れ込んだもの)し、または右両郵便局から転送・還付となる普通通常郵便物(事故郵便物)の差立業務も取り扱う、通常郵便物差立集中処理が開始した。

(三)  通常郵便物差立集中処理に伴う取扱郵便物数の変遷

(1) 差立作業の流れ

昭和郵便物郵便課における差立作業の流れは次のとおりである。

ア 昭和、瑞穂、千種郵便局取集にかかる郵便物

〈1〉 昭和、瑞穂、千種各郵便局区内の郵便差出箱から取り集められた通常郵便物は、定期的に巡回する郵便差出箱取集便により昭和郵便局に運び込まれる。

〈2〉 まず、手作業による予備選別により定形外のものなど機械処理に適さない郵便物が排除される。

〈3〉 次に、郵便物自動選別取揃押印機に供給され、右供給された郵便物のうち同機で処理できない定形外等の郵便物が自動的にさらに排除される。

〈4〉 同機により自動的に押印される。

〈5〉 その後、押印不能の郵便物を排除し、さらに、速達郵便物は手作業へ回される。

〈6〉 そして、連結部を通って郵便番号自動読取区分機へ供給される。

〈7〉 郵便番号自動読取区分機に供給された郵便物について、自動的に郵便番号を読み取り、区分し、読取不能であったものは排除される。

〈8〉 さらに、一部は二次区分(手作業)へ回される。

イ 昭和、瑞穂、千種郵便局窓口引受にかかる郵便物

〈9〉 一部は郵便番号自動読取区分機に供給される(この郵便物は前記〈7〉以下の工程をたどる。)。

〈10〉 その余は手作業に回される。

ウ 事故郵便物

〈11〉 手作業に回される。

なお、右過程において排除された郵便物及び手作業に回された郵便物は、郵便課職員の手作業により差立区分される。

(2) 総引受数及び手作業による差立区分数の変遷

ア 総取扱物数

昭和郵便局が引き受ける郵便物のうち、昭和、瑞穂、千種各郵便局の窓口において引き受けられた通常郵便物についてはその実数が把握されているが、取集郵便物については、その数量が膨大なため実数の計測はされていないため、推計に頼らざるを得ない。また、事故郵便物についても同様である。そこで、昭和郵便局においては、統計処理のため、毎月特定の三日間についてのみ取集郵便物の実数を調査し、これに一定の係数を乗じることによって、その月の取集郵便物数を推計し、これを統計に残している。右統計は、昭和郵便局の通常郵便物差立集中処理開始の前後を通じて存在するものであるから、右前後の総引受数を比較するためには、右統計による数値を比較するのが相当である。

なお、通常郵便物差立集中処理後においては郵便物自動選別取揃押印機を使用しているところ、同機への供給数は自動的に計測されているため、右供給数から取集郵便物数を推計する方法もあるが、通常郵便物差立集中処理開始前においては郵便物自動選別取揃押印機が導入されていないため、同様の方法による推計はできず、結局右開始前の取集郵便物数の資料としては三日間調査による実数から推計する方法によったものが存するのみである。したがって、通常郵便物差立集中処理開始前後の取集郵便物数の推移を見るためには、同一方式の推計方法によるのが妥当であり、郵便物自動選別取揃押印機への供給数からの推計と三日間調査の実数からの推計とを比較することは適当ではない。

さらに、事故郵便物数については、直接の資料はないものであるが、通常郵便物差立集中処理開始前に東海郵便局が立てた通常郵便物差立集中処理計画によれば、集中処理開始後の昭和、瑞穂、千種の三郵便局を合わせた事故郵便物数は一日当たり一万一〇四五通、そのうち、昭和郵便局分は三三二〇通と想定されていたこと、現場の担当者もその程度の事故郵便物はあるとの感覚を有していることを総合すれば、事故郵便物のうち瑞穂、千種両郵便局において自局処理される分もあることを考慮しても、集中処理開始後は一か月当たり二〇万通程度は事故郵便物が発生するものと推認され、また、集中処理開始前の昭和郵便局の事故郵便物数は一か月当たり約六万通と推認される。

右説示の方法により、通常郵便物差立集中処理開始前後を通じて昭和五二年一月から一一月までの一か月当たりの昭和郵便局の取集郵便物数、昭和、瑞穂、千種各郵便局窓口引受数の総数(特定局扱いの料金別納後納郵便物数を含む。)、事故郵便物数、以上の合計(昭和郵便局の総取扱物数)を比較すると別紙一の総取扱物数等推移表記載のとおりであり、通常郵便物差立集中処理開始前の一か月当たりの平均総取扱物数が一四七万六三四三通であり、右開始後の一か月当たりの平均総取扱物数が三三一万五〇二七通であるから、約一二五パーセント増加しているものである。

イ 手作業による差立区分数

昭和郵便局で郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機が稼動開始したのは昭和五二年四月二四日であり、それ以前は全て手作業であったものであるから、通常郵便物差立集中処理開始前における昭和郵便局総取扱物数についてはほぼ手作業によって差立区分されていたものと考えてよいから、昭和郵便局の通常郵便物差立集中処理開始前の手作業による一か月当たりの平均差立区分数は、前記一か月当たりの平均総取扱物数一四七万六三四三通と一致するものといえる。

次に、通常郵便物差立集中処理開始後、すなわち郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機稼動開始後について手作業による差立区分数を推計することとする。前記(1)のとおり、昭和、瑞穂、千種郵便局窓口引受にかかる郵便物の一部((1)のイの〈10〉の郵便物)及び事故郵便物((1)のウの郵便物)は手作業により差立区分され、その数は、前者については実数で把握されており、後者については前記のとおり約二〇万通と推認されるものである。取集郵便物((1)のアの郵便物)のうち、押印不能((1)のアの〈5〉の郵便物)及び読取不能(同〈7〉の郵便物)については、機械により実数が記録されるものであるが、予備選別(同〈2〉の郵便物)、定形外及び速達(同〈3〉の郵便物)並びに二次区分(同〈8〉の郵便物)については実数が把握されないため、推計する必要がある。予備選別並びに定形外及び速達数の推計のためには、郵便物自動選別取揃押印機の押印処理供給数(同〈4〉の郵便物数)は同機により記録されていることから、これを取集郵便物数から控除すればよいこととなるが、前記三日間調査にかかる推計による取集郵便物数から控除することは、性格を異にする方法で算出された数値から控除することとなるため適当な方法とは言い難い。それよりも、昭和郵便局では、押印処理供給数に一・〇七を乗じた数が定形外及び速達分を排除する以前の選別部推定供給数これにさらに一・〇六を乗じた数が取集推定物数として取り扱われ、統計上も右算式により処理されているものであり、右係数は経験的に算定された相当なものと推認されるものであり、しかも、右推計は押印処理供給数に基礎を置いているものであるから、押印処理供給数を控除することによって予備選別等の物数を推計するためには妥当な方法というべきである。

また、二次区分については、郵便番号自動読取区分機によって読取区分された郵便物数(この実数は同機によって自動的に記録される。)の約二〇パーセントに相当する郵便物が回されるものであるから、その推計は容易である。

以上説示の推計方法により、昭和五二年六月から一一月までの一か月当たりの手作業による差立区分数を推計すると別紙二の手作業による差立区分数表記載のとおりであり、右期間の一か月当たりの手作業による差立区分数の平均は二五六万〇一九九通であり、通常郵便物差立集中処理開始前より約七三パーセント増加していることとなる。

ウ 一人当たりの手作業による差立区分数

通常郵便物差立集中処理開始に伴い、郵便課職員も九名増員されたが、郵便課職員数の約二割が増員されたにすぎず、前記手作業による差立区分数の増加率に比較すると相対的に少ない総員であった。そのため、昭和五二年一月から一一月までの間(ただし、四、五月は通常郵便物差立集中処理開始前で機械が導入され稼動開始しているため、比較の対象とするのは適当でないから、除外する。)の各月別の昭和郵便局郵便課通常係員(主事及び一六勤職員並びに機械要員を除く。)一人当たりの手作業による差立区分数は別紙三の一人当たりの手作業による差立区分数表記載のとおりである。通常郵便物差立集中処理開始前の一人当たりの手作業による差立区分数の一か月当たり平均は二〇万四三〇五通で、右開始後のそれは二六万一三五九通であるから、約二八パーセント増加している。

(四)  郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機の稼動状況

郵便物自動選別取揃押印機及び郵便番号自動読取区分機は、ベルト外れなどの軽微な支障は日常的に発生するものであり、右機械を導入した当初は、職員の操作の不慣れもあって軽微な支障を修復するのにも時間と手間を要し、そのために機械の運転を停止して差立区分作業が渋滞したり、手作業にまわる分が増加したりしたほか、機械の修復のための労力も必要とする結果となり、機械本来の能力を発揮できなかった。右傾向は次第に減少し、昭和五二年八月ころ以降はある程度操作にも慣れ、修復作業も円滑になって安定してきたが、軽微な支障は相変わらず日常的に生じ、運行日誌に記録される程度の故障も一か月に二、三件は発生していたほか、機械が正常に稼動していても誤区分や押印漏れなどもあった。

(五)  未処理、不結束数の状況

差立業務においては、郵便差出箱から取集された郵便物及び昭和、瑞穂、千種三郵便局の窓口で引き受けられ、昭和郵便局に集められた郵便物について、昭和郵便局において配達される郵便物を除くその余の郵便物を差立区分して所定の時刻(差立時刻)に自動車運送便で名古屋中央郵便局へ発送している。郵便差出箱からの郵便物の取集は一日四回(日曜、祝日は二回)行われ、窓口引受郵便物の締切時刻は一日五回あり、これらの郵便物を一日五回(日曜、祝日は三回)の差立時刻に自動車運送便(名天上一号便ないし五号便)で発送している。

郵便物の量は一時に多量に差し出されるなどその時々の状況によって変化し、即座に処理できない繁忙時もあれば手空きを生じる時間もあるのが一般であるが、昭和郵便局に差立区分のために集められた郵便物はその直後の差立時刻までに差立区分し、自動車運送便で発送するのが原則であり、郵便課においては、直後の差立時刻までに処理できなかった郵便物について未処理ないし不結束と称して郵便業務運行記録表(内務)にその数、不結束の生じた原因及び措置模様を記録し、差立作業の進行状況について管理することとしていた。また、午後五時における差立区分未済数についても郵便業務運行状況表(内務)に記録し、郵便局長、郵便課長に報告されていた。差立業務の現場においては、とりわけ最終の差立時刻(午後九時八分、名天上五号便で発送するもの。)までに差立作業が終了しなかった郵便物については翌日に繰越処理となり、翌日の業務量が増加するだけでなく、配達が一日遅くなる可能性が高かったことから、午後九時八分における不結束郵便物を残物と称してその縮減のため最大限の努力が払われていた。

ところが、通常郵便物差立集中処理開始前においては不結束の生じることは必ずしも頻繁ではなく、手空き時間が生じることも相当程度あったのに、右開始後においては、手空き時間の生じることは滅多になくなり、不結束の発生が恒常的な状態となり、各差立時刻ごとの不結束数、不結束発生の原因、措置模様について郵便業務運行記録表(内務)に記録されることもなくなり、殊に、一日当たりの残物数の合計が一か月一二万ないし一三万通台に上り、昭和五二年一一月には二八万一五〇〇通(一日平均約九〇〇〇通)にまで増加している。

(六)  亡治一の日常的勤務

(1) 副課長の職務

亡治一は、郵便課副課長の職にあったところ、副課長の職務は、課長を助け、課務の一部を総括整理し、課務の運行上の必要に応じ、課長の職務を代行することとされており、郵便課の業務の運行管理がその主要な職務となっていたものであるが、亡治一が着任した当時の郵便課は前記認定のとおり、通常郵便物差立集中処理開始に伴い差立業務について右開始前に比較して、総取扱数で約一二五パーセント、手作業による差立区分数で約七三パーセント、一人当たりの手作業による差立区分数で約二八パーセントとそれぞれ取扱量が著しく増加していたことから、不結束の発生が恒常的状態となり残物数が多量に発生するに至ったため、その解消が急務とされており、そのため、亡治一は副課長として全体的な運行管理にあたるとともに応援のため自ら現場に出向いて差立区分作業等に従事していた。なお、被告は、右現場における作業につき、上司である課長の下命がなく、あるいはその指示に反して、その必要性もないのに亡治一は勝手に従事していたものであるから、右現場作業に従事したことをもって過重な職務の遂行を命じられたといえないから、公務起因性を認める根拠とはならない旨主張するが、副課長が課の業務の進行状況を判断してその必要性があると認める場合には自ら作業の応援をすることは当然の責務であるというべきであり、かつ、応援の必要性があったことは前記説示のとおりであるから、課長の直接の命令がなかったとしても、亡治一の職務の過重性を判断する根拠となることは明らかであり、被告の右主張は採用しない。

(2) 勤務時間等

ア 勤務時間

亡治一の勤務時間は、日曜日及び祝日は午前九時から午後五時五分までの日勤であり、週休日である火曜日を除く月曜日から土曜日までは午後一時から午後九時五分までの夜勤であった。ところが、昭和郵便局郵便課において副課長は従前から慣行的に夜勤であっても午前一〇時までに出勤するのが常態となっており、亡治一が着任した際、上司である郵便課長から右慣行通り出勤するよう指示されたため、亡治一は毎日午前一〇時には出勤していた。また、退勤時刻についても、前記最終の差立時刻が午後九時八分であったため、その後も残って残務整理、翌日の準備等をしていたため、午後九時三〇分ないし午後一〇時ころまで毎日残業していた。したがって、亡治一は、昭和郵便局で勤務するようになってから夜勤日は毎日約一二時間(通勤時間も含めると一三時間近くになる。)もの長時間労働を継続してきたことになり、郵便課においては課長代理と並んで最も長時間の勤務をしていた。

イ 休憩、休息

そして、右勤務時間中は、四五分の休憩時間と二八分の休息時間が与えられていたが、副課長は右休憩時間等を適宜取得することになっており特定の時間が決まっていなかった関係もあって、充分に取得しないで、食事時間を除いてほぼ休みなしに勤務を続けており、しかも、大部分の時間は後記のとおり現場に出向いて立作業により差立区分、配達区分作業に従事していたものである。

ウ 年休、休日

さらに、亡治一は、昭和郵便局に勤務して以来年休を一度も取得することなく、そのうえ、死亡直前の週休日であった昭和五二年一一月一二日が廃休となり勤務すべき日となっていたところ、亡治一は当日の朝身体の不調を訴えて上司である郵便課長に休みたい旨申し出たものの、右課長が右申出に快く応じず、「二日酔いか。」と揶揄するような聞き方をしたため、亡治一は言わば意地になってその日も勤務したため、結局死亡する直前の週は週休日なしに勤務することとなった。

(3) 現場における業務

亡治一は、副課長としての席があったにもかかわらず、一日の大半の時間を作業現場に出向いて、全体の進行を把握し、遅れているところに作業指示をしながら、自らも率先して差立区分、配達区分作業等に従事していた。右作業は立った状態で大量の郵便物の宛先、郵便番号等を判読し、手作業により区分棚に分けて入れるものであり、長年の経験により慣れた仕事ではあったが、前記認定のとおり不結束の発生が恒常化している状態で手空き時間が殆どなかったため、食事のための休憩時間も惜しんで休みなく作業を継続することとなり、これを長時間継続することは肉体的にも精神的にも疲労度が高い作業であった。また、重量約一〇キログラム程度の郵袋を持ち上げ、中腰で運搬する作業なども含まれ、身体への負担は少なくはなかった。

(4) 管理業務

亡治一は、右の現場における作業に忙殺されていたため、副課長としての机上事務のための時間を充分に取ることができず、休憩時間等を利用して処理していたが、自宅に持ち帰って処理することもあった。

また、通常郵便物差立集中処理開始後、残業を命じる必要性が増大し、三六協定が締結されている期間は(当時三六協定は月単位で締結されており、協定締結が何らかの事情で遅れ、残業命令を発することができない期間もあった。)、殆ど残業の指示が出されていたものであるが、亡治一は、残業人員、時間等について業務の流れを把握して計画し、課長名で残業命令を発していた。ところが、前記認定のとおり、当時郵便課においては取扱郵便物の量の増加により作業密度が高まり、職員の疲労度も高くなっていたことから、残業の指示に応じない場合も多く、亡治一はその都度自ら当該職員のもとへ出向いて説得し、それでも応じない場合には残業拒否の理由を記録する業務も行っていた。

さらに、当時昭和郵便局において労使関係が必ずしも良好とはいえず、亡治一も管理職としてその対応のために種々気を使い、労働組合員の非違行為についての現認書を自宅において原告の補助により作成したこともあった。

(七)  死亡直前の臨時的業務

(1) 郵便協力会設立業務

郵便協力会とは、郵便局を利用する区内の顧客の中から代表者を選び、郵便局の業務についての意見要望を徴して業務に反映させる趣旨で設立されるものである。昭和郵便局においては、新庁舎の完成、引っ越し等のために他局に比べてその設立が遅れていたが、昭和五二年一〇月ころから設立準備が始まり、管理職が手分けして加入勧誘等を行っていた。亡治一は、郵便課長の命により川島課長代理と共に二件程加入勧誘に回ったが、その後、同月末ころには同課長の命により一人で加入勧誘に回った。また、郵便協力会の会費の出納事務も担当し、同年一一月七日付け、同月一六日開催の郵便協力会設立総会の通知及び出欠回答の葉書を同封した封筒の宛名書き及び発送事務を担当し、右事務についてはその日付の日ころ自宅に持ち帰って処理した。

(2) 年賀葉書の事前把握及び配送業務

年賀葉書の事前把握とは、年賀葉書の受注量を確保するため及び販売を円滑に進めるために事前把握という名目で年賀葉書発売前に大口の注文を取ることであり、発売日である昭和五二年一一月五日ころの一〇日位前から電話等により大口需要者から注文を取り、希望者には発売日以後配送していた。右業務は郵便課副課長である亡治一及び集配課の副課長等三名程度で担当していた。配送すべき年賀葉書はいずれも二〇〇〇枚以上の大口で、十数件あり、亡治一はこれを他の担当者と手分けして同月七日から九日ころにかけて自転車に積んで注文先へ配達し、同月一六日にも第二集配課副課長の運転する官用車で昭和税務署へ年賀葉書約二万枚を配達した。年賀葉書は一箱四〇〇〇枚入りで一〇キログラム以上あり、これを一人で配達することは、殊にエレベーターのない二階以上の事務所等へ運搬する際は身体的な負担となった。

(八)  死亡直前の勤務状況

(1) 残物数の増加

昭和五二年一一月になって差立業務における残物数が従前に比較して急激に増加したことは前記(五)の認定のとおりであるが、亡治一が脳出血を発症した同月一六日は残物数が三万二〇〇〇通と最も多量に発生した。

(2) 昭和五二年一一月一六日の状況

当日の差立業務における取扱総数は、当時の平常の取扱総数(増加傾向にはあったものである。)と比較すると突出したものではなかったが、郵便業務運行記録表の記載により、当日の残物数と人物数とを対照すると、差立時刻午後九時八分の名天上五号で発送すべき取集四号便等で運び込まれた一万八三〇〇通(概数)及び差立時刻午後五時四八分の名天上四号で発送すべき取集三号便等で運び込まれた一万三一〇〇通(概数)に相当する郵便物については差立区分されることなく、当日は手つかずの状態で、右以前に集められた分について差立業務に従事していたことが推認され、何らかの事情により差立業務が相当程度滞留していたことが窺える(なお、昭和郵便局長が亡治一の災害補償申請手続きのために作成した国家公務員災害報告書には「当日は物増として朝から午後にかけてハガキ八六〇〇枚、三種一三〇〇枚、市内特別四〇〇〇枚、合計一三九〇〇枚があったが職員に作業指示して午後四時〇〇分頃までには区分作業を終了した。」との記載があることは当事者間に争いがなく、当日の差立業務が順調に推移していたかのようにも解釈できるが、前記事実に照らすと右記載は物増分の処理のみについての記載と解するほかはない。)。

また、当時、郵便課で差立業務に従事する通常係については人員計画上は中勤勤務五名、夜勤勤務一三名とされていたが、実際に右計画人員が充足されることは少なく、当日も、担務表によって予定されていた人員は中勤勤務四名、夜勤勤務一一名であったところ、当日になって中勤勤務一名、夜勤勤務三名の欠勤者が出たため、夜勤勤務について二名補充し、結局、中勤勤務三名、夜勤勤務一〇名で差立作業に従事したものであり、右欠員も亡治一を含めて作業者の負担を大きくした。

(3) 亡治一の当日の行動

亡治一は、当日、通常通り午前一〇時に出勤し、午前中は差立作業の応援業務に従事し、午後一時二〇分ころ、年賀葉書約二万枚(重量にして五〇キログラム以上)の配達のため前記のとおり昭和税務署へ出かけて午後二時ころ帰局し、その後は再び差立作業の応援にあたった。また、当日郵便課長が午後二時三〇分ころまで不在であったため、課全体の業務運営にも気を配らなければならなかった。そして、午後四時四五分ころ、同僚に眩暈がする旨訴えたが、そのまま業務を継続した。その後、午後六時五〇分ころ、夕食を取るために外出し、一人で昭和郵便局から一五〇メートル位離れた食堂キッチン和へ向かい、途中、右食堂の西隣の桜薬局で頭がふらふらすると言って鎮痛剤を購入した後、右食堂で夕食を取り、午後七時一〇分ころ右食堂を出た時点でよろよろと倒れ、右桜薬局へ這って入って行き「わしは血圧が高い。」といってうつ伏したため、救急車で名古屋市昭和区滝子町二七の安井病院に搬送されたが、人事不省のまま、翌一七日午前四時四〇分死亡した。

(九)  まとめ

亡治一の職務の実態を総合すると、亡治一は、辻町寮寮務主査の当時は勤務にも比較的余裕があり、労働負担は軽微なものであったが、昭和五二年七月二六日付けで昭和郵便局郵便課副課長を命じられて以降、当時、昭和郵便局において通常郵便物差立集中処理開始後間もない時期にあたり、取扱郵便物総数が急激に増加し、郵便課の人員が増員されたものの職員一人当たりの労働負担は増大し、加えて郵便物自動選別取揃押印機等の機械を導入してからも日が浅くその取扱に不慣れな点が残っていたこともあって、郵便課全体としての差立業務が滞留しがちで繁忙な時期であったことから、亡治一の職務上の負担は量的、質的に相当程度高度なものとなっている。すなわち、亡治一は、副課長として全体の業務の進行状況を管理し、残物の発生を解消すべき職務上の責任と負担を感じながら、自ら率先して勤務中の大半の時間を現場の作業の応援のため差立区分作業等に従事していたものであり、右作業自体が作業密度が濃く、肉体的、精神的に負担の大きな作業であり、当時正規の勤務時間稼動しただけでも職員が疲労を訴え、残業命令を拒否するような状況であったのに、亡治一は連日早出残業により長時間労働を継続していたものである。ちなみに、亡治一とほぼ同一の勤務状況で稼動していた課長代理はこのような勤務に耐えられずに亡治一の死亡の直前に課長代理を自ら辞めている。また、亡治一は、右のような現場の作業に従事しながら、管理的業務にも従事していたが、上司である郵便課長から、管理的業務の不足、不備を指摘されており、精神的負担ともなっていた。

右の職務実態に加え、昭和五二年一一月になってからは残物数が増加傾向を示し、また、臨時的業務による負担も加わって、亡治一の職務は通常の健康状態の者にとっても相当負担の大きいものであったことが窺えるのであり、亡治一の肉体的、精神的負担、疲労はかなり蓄積していたものである。

4  亡治一の本態性高血圧症と公務との関係

(一)  亡治一の病態の推移等

〈証拠〉を総合すれば次の事実が認められる。

(1) 亡治一は、昭和二年六月二六日生まれ、死亡時満五〇歳の男子で、身長一五三センチメートル、体重六〇キログラムでやや肥満気味の体格であった。また、同人は、喫煙の習慣があり、従前から一日二〇本程度吸っており、飲酒の嗜好もあったが、昭和郵便局配転後はあまり飲む機会はなく、飲酒しても多量に飲むことはなかった。脳出血発症前にも昭和五二年一一月一〇日に職場の懇親会があって飲酒の機会はあったが、その日も帰宅時刻は通常通りで、量的にも多いということはなかった。

(2) 亡治一は、昭和四三年五月二九日の定期健康診断において血圧値の最大が一七四(単位mmHg、以下同じ。)、最小が一〇四を記録して、郵政省健康管理規程(昭和四〇年一〇月二五日公達第六九号)四四条による血圧異常者区分基準で高血圧A、同規程四一条、四三条による判定区分で要指導者(就業はさしつかえないが、過激な勤務を避け、長期にわたり注意観察を要する者)と判定されて以来高血圧症の症状を呈し、昭和四五年五月一二日の定期健康診断では最大血圧値一八八、最小血圧値一一〇を記録して血圧異常者区分基準で高血圧B、判定区分で要治療者(就業はさしつかえないが、長期にわたり勤務上の制限を加える必要がある者または長期にわたり治療を行う必要がある者)の指定を受け、昭和四六年の定期健康診断では高血圧A、要指導者と改善したが、昭和四七年五月一日の定期健康診断において高血圧B、要治療者と再び増悪し、同月二二日の検査では最大血圧一九〇、最小血圧一一八で、眼底検査の結果はkW[1]と動脈硬化の症状も現れたため判定区分の要休養者(長期にわたり就業できないと認められる者及び就業することにより病勢が著しく悪化するおそれがあると認められる者)と判定されたため、四週間の入院治療を受けることとなった。その後、血圧異常者区分基準では高血圧AないしB、判定区分では要治療者ということで一進一退の比較的安定した状態が続いた。昭和四九年一月から四月まで及び昭和五〇年一〇月から一二月までの間においては血圧値の高い時期があったが(たとえば、昭和四九年一月二一日最大血圧一九〇、最小血圧一二〇、昭和五〇年一一月八日最大血圧一九四、最小血圧一一六)、通院治療を継続することにより一時的なもので済み、その後は安定した状態に戻っている。

そして、昭和五一年四月六日の定期健康診断において最大血圧一五二、最小血圧九八となって血圧異常者区分基準で高血圧Aと指定変更となり、昭和五二年四月一一日の定期健康診断において最大血圧一五二、最小血圧九〇という値を示したため判定区分も要指導者と変更された。ただし、昭和五一年三月三一日の眼底検査においてはkW[2]a~b動脈硬化が進行していることを窺わせる所見もあった。

以上の経過により、亡治一の高血圧症の重症度は、昭和五二年四月一一日の定期健康診断の時点以前においては軽ないし中程度であった。

(3) 亡治一は、昭和四七年五月二六日名古屋逓信病院において四週間の入院治療を受け、その後も断続的に同病院に通院して降圧剤等の投薬を受ける治療を行っていた。ただし、亡治一は前記のとおり要治療者との判定を受け、管理医からは一か月に一回ないし一回以上診察を受け、治療及び生活指導を受ける旨の指導があったのにかかわらず、血圧が上がり異常を感じた時に通院する状況で昭和五〇年六月まではあまり通院してはいなかったが、同月以降昭和五一年七月までは一か月に一回程度比較的よく通院して治療を受けていた。ところが、その後通院が途絶え、亡治一の脳出血の発症する約一か月前である昭和五二年一〇月一一日までの間治療を中断していた。

(4) 亡治一は、辻町寮寮務主査の時代には、眩暈、疲労感等の高血圧症の自覚症状を訴えることはなく、昭和郵便局へ配転後も当初の間は張り切って仕事をしていたが、昭和五二年一〇月ころから疲労感を訴えるようになり、朝起床するのも辛くなり、夜帰宅後もすぐに寝てしまうことが多くなり、職場においても、休憩室のソファーでうずくまっているのを目撃されたり、同僚に対し「休ませてもらえんでいかんわ。」「こんなことやっておったら殺されてしまう。」などと疲労感を訴えていた。そのため、亡治一は同月一一日名古屋逓信病院で肩こり、眩暈の自覚症状を訴えて診察を受けたところ、最大血圧一九六、最小血圧一一〇、尿蛋白がプラスであったため、血圧降下剤七日分を受け取り、同月一七日にも同病院へ通院して同様に七日分の投薬を受けたが、心臓左第一弓、第四弓突出という動脈硬化及び心臓肥大の所見が現れたが、その後は通院してはいない。同年一一月七日、ハイリスク検査が行われ、亡治一も受検したが、最大血圧一九一、最小血圧一二一、尿蛋白弱陽性という検査結果であり、血圧異常者区分基準が高血圧B(なお、血圧値のみで判定すれば高血圧Cに該当した。)、判定区分が要治療者と変更になった。なお、右血圧異常者区分基準及び判定区分の変更は職制を通じて速やかに本人に通知することとなっていたにもかかわらず、亡治一に対し右通知がされた形跡はない。また、右症状は、東大第三内科高血圧研究会の高血圧重症度判定基準によれば3(0ないし4の五段階)、日本循環器管理研究協議会の高血圧重症度判定基準によれば4(0ないし4の五段階)に該当し、重症度としては中等度ないし重症であった。

(5) 亡治一は、前記のとおり昭和五二年一一月一一日(前記週休日が廃休となった日)に、身体の不調を訴えて休暇を取ろうとしたが、前記の経緯で結局出勤することとなり、その週は週休日がなくなってしまい、亡治一は体調の回復のため休養する機会及び通院して診察、治療を受ける機会を失ってしまった。そのころ、亡治一は原告に対し、「こんなことをしてたら死んでしまう、局を替わることを考えないかんな。」と申し向けて初めて職務の負担感及び疲労感を訴えており、亡治一の体調がかなり悪化していたことが窺える。そして、同月一六日、亡治一は朝起床前に原告に対し、「今日はえらいからちょっと背中を叩いてくれ。」と言って暫くうつ伏せになってからようやく起床して、出勤したものであるが、午後四時四五分ころ、同僚に対し眩暈がする旨自覚症状を訴えており、この時既に脳出血の前駆症状があり、同日午後七時一〇分ころ前記のとおり脳出血を発症し、死亡するに至ったものである。

(二)  亡治一の症状の変化と公務との関係

前記(一)の亡治一の病態の推移と前記3の亡治一の職務の実態とを総合して検討すると、亡治一が辻町寮寮務主査の職務に従事していた時は、労働負担も比較的軽度で、血圧値も概ね安定して推移しているものであり、昭和郵便局郵便課副課長の職務に従事するようになって約二か月経過してから、亡治一の高血圧症は急激に増悪し、ついには脳出血を発症して死亡したことが認められる。亡治一の症状は、辻町寮寮務主査の時代以前にはかなり高い血圧値を示し、増悪したこともあったが、それも右寮務主査時代には安定していたものであり、また、右寮務主査時代にも一時的に増悪し、高い血圧値を示したこともあったが、短期間に治療効果もあがって血圧値は落ちついているものである。

昭和郵便局郵便課副課長としての亡治一の職務は、前記のとおり、長時間、高密度の肉体的、精神的労働の継続、夜間労働など通常の健康状態の人間にとっても相当程度に肉体的、精神的負担の大きいものであったのであるから、本態性高血圧症の基礎疾患を有する亡治一にとっては、右疾患が安定した状態にあったものとしても、極めて肉体的、精神的負担の大きなものであり、従前の職務とは職種も労働時間、密度ともに隔たりのある新職場へ配転したことの精神的負担も重なって、亡治一に対する重大なストレスとなって襲い、本態性高血圧症増悪の有力な要因となったことは容易に認められるのである。このことは、亡治一の本態性高血圧症が急激に増悪した時間が昭和郵便局配転後約二か月経過したころであることからも裏付けられるのであり、右二か月間に亡治一の職務による負担、疲労は重大なストレスとなって蓄積し、本態性高血圧症の急激な増悪へと繋がったものである。

本態性高血圧症の危険因子としては、他にも喫煙、飲酒、食餌等も存在するものであるが、喫煙量については従前と変化はなく、右時期に本態性高血圧症を急激に増悪させる因子としては考え難いものであり、飲酒についても亡治一は控えていたことが認められるから本態性高血圧症の増悪に寄与したものとする根拠はないし、食餌等他の要因についてはその程度、寄与度について明らかでなく、これらが原因となって本態性高血圧症を増悪させたことを窺わせる証拠はない。

さらに、亡治一の昭和郵便局配転前の症状の中には本態性高血圧症が進行していた形跡も窺われ、自然的な経過による増悪であること、すなわち、亡治一が公務に従事することがなくても同じ時期に本態性高血圧症が自然的に、あるいは遺伝因子によって増悪し、脳出血を発症して死亡したであろうという医学的可能性を完全に否定することはできないが、亡治一の職務の実態に照らして検討すると、職務の遂行によるストレスの寄与度が前記説示のとおり極めて大きいものであり、これが要因となって本態性高血圧症が増悪した高度の蓋然性が認められるのであるから、遺伝因子等により自然的に増悪した医学的な可能性を重視することは相当でない。

他方、被告は、定期健康診断の結果及びハイリスク検査の結果を通じて亡治一の右症状を知りまたは知り得る立場にあったのであるから、亡治一の職務の同人に与える影響、これによる本態性高血圧症の増悪の結果については予見し得る立場にあったものであり、相当因果関係の判断にあたりこの点も考慮すべきところである。

よって、亡治一の本態性高血圧症が昭和五二年一〇月以降急激に増悪したのは、亡治一の職務による肉体的、精神的負担、疲労が、本態性高血圧症の基礎疾患を有する同人にとってとりわけ重大なストレスを引き起こしたことに起因するものであり、本態性高血圧症に罹患しているという亡治一の特別の事情について被告は知りまたは知り得べき立場にあったものであるから、亡治一の職務と本態性高血圧症の憎悪との間に相当因果関係を認めるのが相当である。

(三)  脳出血発症の原因

右によれば、亡治一の本態性高血圧症の急激な増悪は同人の公務に起因するのであり、増悪して中等度ないし重症となった本態性高血圧症に罹患している亡治一にとって、前記認定の職務はますます重大なストレスを引き起こすことになるものである。亡治一が脳出血を発症させたのは、同人の本態性高血圧症の急激に増悪したこと及び同人の職務による負担、疲労が蓄積され、ストレスが頂点に達した時期に週休日もなく、疲労回復の機会を失ったまま従前通りの職務を継続し、直接的には発症の当日に前駆症状が現れながら職務を遂行継続したことによるものと認められるから、右職務による負担と本態性高血圧症が共働原因となり、相乗効果を起こして互いの寄与度を高めていき、ついに脳出血を発症させたものと推認するのが相当である。

(四)  服薬成績との関係

被告は、亡治一が本態性高血圧症を増悪させた原因は、適切な医師による治療を受けず、服薬成績が不良であったため、血圧の適正なコントロールが不可能となったことにあるから、亡治一の職務とは関係がない旨主張する。

確かに前記(一)掲記の証拠によれば、本態性高血圧症の治療上、一般療法により種々の本態性高血圧症増悪の危険因子を除去することと並んで血圧降下剤等の投与による血圧コントロールが重要であり、これが適正にされれば血圧の上昇を防ぐことは可能であり、死亡に至るような重篤な疾病の発症の可能性も少なくなるものであること、血圧降下剤を継続的に服用せず、断続的に服用したり、中断したりすると、却って血圧が急激に上昇する現象(リバウンド現象)が起こる場合があること、亡治一は、昭和五一年七月一二日から昭和五二年一〇月一一日までの間通院治療、投薬を受けず、同月一七日に通院し、七日分の薬剤を受領した後脳出血発症に至るまでの間、投薬を受けていないことが認められる。

しかしながら、前記説示のとおり、亡治一の本態性高血圧症の増悪は同人の職務に起因するのであるから、仮に服薬が適正にされれば右増悪を防ぐことができたものとしても、亡治一の職務に起因して本態性高血圧症が増悪したという評価に影響はない。また、リバウンド現象については、それが必ず起こるというものではないし(亡治一は度々服薬を中断しているがその都度リバウンド現象が起こっているということはない。)、また、当時昭和五二年一〇月一一日に服薬を再開する以前に亡治一の症状は増悪していたものであるから、リバウンド現象が起こって亡治一の本態性高血圧症が増悪したということは認められない。

さらに、亡治一の右服薬成績の不良は、本態性高血圧症を増悪させようという意図に基づくものではないことは明らかであり、また、右通院をしなかった時期は亡治一の症状が比較的安定していた時期であり、服薬を怠っていたものとしても同人が故意に増悪させたのと同視し得るような著しい落度があったということはできず、昭和郵便局配転以降については当時の昭和郵便局における亡治一の職務の実態を考慮すると頻繁に病院へ通院して適正な投薬を受けることができなくても無理からぬところがあることが認められるから、亡治一が重過失によって本態性高血圧症を増大させたということもできない。したがって、右服薬成績の不良をもって亡治一の本態性高血圧症の増悪の公務起因性を否定する理由とすることはできないものである。

5  結論

以上の検討の結果によれば、亡治一の昭和郵便局における職務と基礎疾患である本態性高血圧症の増悪との間には相当因果関係が認められ、右職務とこれにより増悪した本態性高血圧症が共働原因となって脳出血を発症させ、同人を死亡するに至らせたものであるから、同人の職務とその死亡との間には相当因果関係を認めるのが相当であり、亡治一が死亡したことについては災害補償制度の趣旨に反するような特段の事情も認められないから、亡治一の死亡には公務起因性が認められる。

したがって、亡治一の死亡は補償法一五条所定の「職員が公務上死亡」した場合に該当するものであるから、原告は、亡治一の妻として同条に基づく遺族補償給付を受ける権利を有する地位にあることが認められる。

三  よって、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 清水信之 裁判官 遠山和光 裁判官 根本 渉)

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